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「サラエボの花」・・・オシムの伝言

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図書館で予約していた「オシムの伝言」(千田 善著・みすず書房)の順番がようやく回ってきたので読み始めている。この本は今まで何冊か読んだスポーツライター(スポーツジャーナリスト)のサッカー本とは一線を画する質の高いもので、それは身近に語られるオシムさんの魅力に加えて著者(通訳だった)千田氏の学者、ジャーナリストとしての見識の深さによる。読後感はいずれブログに書くとして、読みながら必然的に思い出さざるを得ない映画「サラエボの花」について今日は書きたい。                                   

「サラエボの花」(原題:グルバヴィッア・監督、脚本・ヤスミラ・ジュバニッチ)は2007年に公開されたボスニア映画で、その年のベルリン国際映画祭で最優秀作品賞、その他にも各地で数々の賞を受けた作品である。サラエボのグルバヴィツアに住むエスマはひとり娘のサラと暮らしている。ボスニア紛争から12年が過ぎ、街は一見正常を取り戻したかのようだが、人々の心の中には戦争の傷跡が深く残っている。エスマは働きながらサラを懸命に育てており、父親は”シャヒード(殉教者)”であると聞かされてきたが修学旅行の時「シャヒードのこどもは証明書を出せば旅費が免除される」という先生の言葉を聞き、母親に「父さんがシャヒードだったという証明書を出して」と頼むが母親エスマはどうしても出そうとせず、クラスメイトから「お前の父さんの名前は戦死者リストにない」と聞かされ、ついに母から「サラは収容所で敵の兵士にレイプされて生まれた」という事実を知らされる。ショックのあまり、頭を丸坊主にするサラ。セラピー(戦争犯罪レイプの犠牲者が集まる)の場で「子供の存在が許せず、流産させようとお腹を叩き続けたこと、しかし生まれた子供を見たとき、こんなに美しいものが世の中にあることを忘れていた。」と告白するエスマ。                       

修学旅行出発の朝、バスを見送るエスマに、頭をスカーフで巻いたサラが元気に母親に笑顔を返すところで映画は終わる。                                   

Photo_2 サラエボ出身の監督ヤスミラ・ジュバニッチは紛争時代は10代前半、彼女にとっても”思い出したくない辛い想い出”だった筈だ。キャンペーンのため来日したこの若い監督は「戦争犯罪(レイプ)被害よりも、女性が人間としての尊厳を取り戻す姿を描きたかった」と述べている。なお原題「グルバヴィツア」はボスニア紛争時のサラエボの最前線となった激戦地の名称である。                                                

日本代表監督として日本にいたオシムさんは上映にあたって次のようなメッセージをボスニア大使館を通じて寄せている。「われわれグルバヴィツアの住人は、かってサラエボのこの地区が、すべての者がともに共存し、生活を営み、サッカーをし、音楽を奏で、愛を語らえる象徴的な場所であったことを決して忘れない。」なおオシム氏自身も紛争時の3年間、監督としてベオグラードに赴任しており、長男アマル氏も選手としてイギリスに遠征中で、セルビア人勢力に武力包囲され水もガスも絶たれ、NATO軍の空爆にさらされたサラエボに残った奥さんと娘さんのふたりと3年間会えずにいた。                            

追記:ボスニア紛争とは・・・”民族のるつぼ”と呼ばれるバルカン半島に位置するユーゴスラヴィアが「諸民族の友愛と団結」を掲げるカリスマ指導者チトーの死後、経済危機に直面する中で民族間の対立が深まり内紛が激化し武力闘争にまで発展したもの。当然サラエボもそれに巻き込まれ、特に住民の多数を占めるムスリム(ボシュニャク人・イスラム教徒)とセルビア人(主として正教会)の対立が最も先鋭化した。(オシムさんはドイツ人の血を引くクロアチア人、ユーゴ解体後はボスニア人である。)かれらは宗教は違うもののいずれも南スラブ人として人種も言葉も同じで、ボスニア住民の6割が他民族と結婚し親戚関係にあるという。隣人どうしそれぞれの宗教のお祭りの日には互いにディナーに招き合ったという。かっては「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたが、実際は多民族共存の歴史ははるかに長いのだ。オシム氏はそんなサラエボで育ち”子どものころ、さまざまな民族、宗教の友人たちと遊ぶことによって、リスペクト(尊重・尊敬)する習慣を身につけた。 世の中には自分のモノサシだけが正しいのではないこと、他の家族の宗教や文化にも敬意を払うべきであることを自然に学ぶことができた。”(千田善「オシムの伝言」より)このような多民族共存の歴史が崩壊したのはチトー死後、国家権力を争い合った政治家たち(ポスト・チトーのユーゴスラヴィア大統領・ミロシェヴィッチ・セルビア人を筆頭とする)の争いに「排外的民族主義」が利用され、とりわけ住民の多数だったムスリムに対しての憎悪を扇動させたことにある。ムスリムとはかってこの地を支配していたオスマン帝国の時代にイスラム教に入信した人々(子孫)で、「民族主義政治家」たちは彼らを「侵略者の子孫」として住民の怒りを煽り立てたということだ。(オスマン帝国はトルコ人の王朝であったとはいえ、国民は多数の民族からなる多民族国家であった。)                                             

ミロシェヴィッチたちの唱える「民族浄化・ジェノサイド」はかの有名な「スレブレニツアの住民虐殺」を引き起こし、サラエボではセルビア人住民を市外に退去させた後、残った市民Photo_4 に対する武力包囲、銃撃が行われた。しかし少なくないセルビア人が市内に留まり、ムスリムや他の民族からなる市民と共に闘ったという。(この時、戦死した人々を現在ボスニア政府が”シャヒード(殉教者)”として称えている。)                                                             

この紛争、特に激戦地であったコソボ、サラエボに対するアメリカ主導のNATO軍(国連安保理の承認がなかったため)の大規模空爆は数万の民間人死者とともに、劣化ウランの使用によって”バルカン症候群”という後遺症を帰国した兵士にも与えることになった。(ちなみに空爆を指示したのは、当時の国連事務次長・明石 康氏である。)民衆は宗教や文化の違いだけで殺し合うことはない。必ず憎悪や偏狭な民族主義を煽り立てる仕掛け人がいる。紛争は多くのメディアが当たり前のように唱える「民族と民族の対立」「宗教と宗教の対立」ではなく、「偏狭な排外的民族主義」と「多民族共存主義」の対立が生んだ戦争であったということだ。

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とても魅力的な記事でした。
また遊びに来ます!!

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