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2011年2月

「プリンセス・シシー」・・オーストリア最後の皇后エリーザベト(エリザベート)の生涯

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一昨日、午後から押入れや衣類の整理をしながらTVをつけたらBS2でちょうど「プリンセス・シシー」(オーストリア映画1955)が始まったばかりでそのまま映画をみながら仕事をすることになった。映画は”シシー(Sissi)三部作”と呼ばれる「プリンセス・シシー」「若き皇后シシー」「ある皇后の運命の歳月」の最初の作品で、映画のヒットによってシシーを演じたロミー・シュナイダーは一躍スターダムにのし上った。                              
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私は今回初めてこの映画を見たのだが、映画としては凡作で(というよりロミー・シュナイダーのアイドル映画)、オーストリアやハンガリーで今だに「シシー」という愛称で呼ばれているエリーザベト皇后Sissi の半生をシンデレラストーリーとして描いており、彼女や王室を襲った不幸(とりわけ晩年の)、この当時のオーストリア治世下での激動の社会(とくに列強の動きと民族運動の激化)などは当然のことながらスルー、夫のフランツ・ヨゼフも好青年、賢帝としてのみ描かれ、反自由主義者、絶対主義君主論をガチガチ信奉する高圧的政治家としての一面は全くカスリもせず、単なるハイソサイエティのラブストーリー映画に仕立てられている。3作目の「ある皇后の運命の歳月」は夕食前後の慌しい時間にまぎれて見ることができなかった。しかしここでも長女ソフィーの死や、「スイスで湖畔を散歩中にイタリア人青年のアナーキストに刺殺」されて61才の人生を閉じるという衝撃的な彼女の人生の幕切れは勿論描かれていない由。  

映画”シシー3部作”は今でもオーストリアではクリスマス・シーズンなどに繰り返し放送されているということで、さしづめアルゼンチンのエビータに比べられるような国民の人気者であるらしい。(ふたりの出身はだいぶ異なるが、国民の血税を湯水のごとく浪費して豪奢で気ままな人生を送ったという本性は全く同じ)                                    

バイエルン王国公女のシシー(16才)が実は姉とお見合いする予定の若きオーストリア皇帝Photo_4 フランツ・ヨゼフ1世に見染められ結婚するまでが第1部、皇后としての宮廷生活、出産、姑ゾフィー(実はシシーの母の姉で叔母にあたる)との確執に苦しみながらも夫の愛情に支えられて苦労を乗り切るまでが第2部、そしてその後のオーストリア・ハンガリー帝国の成立に尽力した後、病気療養、気ままな放浪の旅に明け暮れる日々が第3部で描かれる。有名なハンガリー伯爵アンドラーシとの恋、窮屈なウィーンでの生活に比べてハンガリーの自然の中での乗馬三昧の日々がハッピーに描かれている由。                                      

姑ゾフィーとの確執は彼女を心の病に追い込むほどすざまじいものだったという。ゾフィーもまた政略結婚でハプスブルク家に嫁いだ人だが凡庸な皇帝(夫)に早々に愛想をつかして彼を廃帝に追いやり、3月革命勃発のドサクサを利用して息子のフランツを18才で即位させ、「陰の皇帝陛下」とささやかれた。68年の長きにPhoto_7 わたってフランツはオーストリア皇帝であり続けたが、母存命中は決して母に逆らうことのないマザコン男で唯一シシーとの結婚のみ母に従わなかったと伝えられている。(姑ゾフィーは天衣無縫なシシーよりも温和で礼儀正しい姉のヘレーネを皇妃にと考えていた)                                     

そんないきさつもありゾフィーは姪のシシーを好まず、すべてにおいてシシーに厳しかったと いう。とりわけ生まれた孫をシシーが育てることを許さなかったことはシシーにとって衝撃だった。1男3女をもうけながらも心の空虚は膨らみ、さらに多忙な夫とのすれ違いも次第に大きくなり、空しさを埋めるかのように放浪の旅で日々をすごし、ひとり息子ルドルフ皇太子の情死事件後、さらに放浪癖は強まり、1898年、旅先のスイスで散策中にアナーキストの青年に暗殺されて61才の生涯を閉じたのである。                  

夫のフランツ・ヨゼフ1世はひとり息子で皇位後継者のルドルフに謎の死を遂げられるという不幸に見舞われた。これは「うたかたの恋」としてPhoto_10 何度も映画化され、私もDVDで観た(ルドルフ役オマー・シャリフのバージョン)ここでは男爵令嬢との道ならぬ不倫の恋の果ての道行きとして描かれているが真相は不明。写真左:ルドルフ皇太子)そして旅先で最愛の妻が刺殺されるという悲劇が続く。  

さらに実弟マキシミリアンがナポレオン3世の傀儡としてメキシコ皇帝になったのだが、すでに自由主義の波はこの地にも及び、ベニート・ファレスに銃殺されてしまう。追い討ちをかけるかのように皇位継承者となった甥のフランツ・フェルディナンド公もまた1914年サラエボで暗殺され、その結果オーストリアはセルビアに宣戦布告することにより第1次大戦の口火が切られた。帝国は多民族の支配と抑圧、さらにイタリアなど各地への無茶な征服戦争など次々にボタンを掛け違えたかのように自滅の道をたどり、大戦のさなか1916年にフランツ・ヨゼフ1世は86年の生涯を閉じ、2年後の1918年、かの神聖ローマ帝国以来のハプスブルク王朝は650年の幕を閉じたのである。(歴史の必然ではあった。) 写真下:晩年のフランツ・ヨゼフ1世。最後のオーストリア皇帝である。                                          
映画「シシー3部作」が華麗でハッピーなシシーの半生を描けば描くほど、実際のシシーがたどった不幸な人生が浮かび上がってきて複雑な思いに駆られたことであった。オーストリアやハンガリー(この国でのシシー人気はオーストリアを凌ぐとか)のシシーファンは一体どんな気持ちでクリスマスにこの映画をみるのだろうと不思議に思ったことだった。
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大分前のことであるが、ヨーロッパの王家・・いわゆる”Blue Blood”(青い血・・白い肌から見える血管は青い、高貴な血。しもじもの血は日に焼けた肌を通して赤銅色)モノに興味を惹かれ、図書館などでその手の自伝や他伝?(もともと実話ものが好き、膨大な家系図と照らし合わせながら)を読み漁ったとがある。その中に「エリザベート・・ハプスブルク家最後の皇女」(1992 塚本哲也著:文芸春秋社)という本があり、(その年の「大宅ノンフィクション賞)、著者の塚本氏は毎日新聞記者であったそうで(現在はどこかの大学教授?)、メッテルニヒの研究などでも著名でオーストリア政府から「オーストリア国民栄誉賞」「文化功労賞」などを授与されているそうです。                               
Photo_8 ここで取り上げられているエリザベートはシシーではなく彼女の孫にあたる女性、つまり情死したシシーの息子ルドルフ皇太子とステファニー妃との間に出来た娘さんで、表紙の写真からして非常に美しい人である。塚本氏は彼女に関する資料を集め、さまざまな検証を行った上でこの本を書かれたという。(きっかけはこちらのエリザベートが1959年に死去したというニュースを読んで彼女の生涯に関心を抱いたとか)                         

話がどんどん長くなるので内容は記さないが彼女もまた父を失った後、オーストリア帝国の崩壊、ハプスブルク家の衰亡、大戦(1次2次)、ナチズムの台頭という怒涛の時代を生き、時には反ナチ運動にも関わり、社会民主党のリーダーであったベッネック氏という良き伴侶を得て(「赤い皇女」としてヨーロッパを驚愕させたとか)晩年は心穏やかに生きられたという。                                                                                                                   

付記:映画界のシシー(実際、その後長く彼女の愛称となった)ロミー・シュナイダーは一時はPhoto_11 かのアラン・ドロンと婚約、ハリウッド進出の成功など順風満帆な人生を歩んでいるかに思えたが2度の離婚、愛息の14歳での事故死など不幸が続き、睡眠薬多用による心不全で44才の短い生涯を終えている。彼女は名匠ルキノ・ビスコンティ監督の「ルードヴィヒ」でもオーストリア皇后エリーザベトに扮していました。                                  



(写真下:シシーとフランツ・ヨゼフ皇帝が日々を送ったウィーンのシェーンブルン宮殿。マリア・テレジアの末娘アントワネットもここからフランスのルイ16世の元に嫁いだ。)           Photo_9

ホロコーストから生き延びたユダヤ人・・「戦場のピアニスト」(2003)

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このところ、過去のアカデミー賞受賞作品をBS1が連日のように放送しており一昨日は「戦場のピアニスト」をやっていた。重い映画で落ち込んでいるときに見られるものではないのでスルーしたが、2003年に映画が公開されてDVDリリースされたものをその当時見たのだが、直前に偶然にも主人公(実在した)のポーランド人、ウワディスワフ・シュピルマンの自伝「ザ・ピアニスト」(春秋社)をたまたま読んでいたため映像化されたことに驚きつつ期待して見たことを記憶している。                                            

ストーリーはひとりのピアニストの青年(ナチ政権下ではワルシャワの放送局勤務、終戦後にヨーロッパで著名なピアニスト、音楽家として活躍した。)がワルシャワ・ゲットー(ユダヤ人の強制的居住地)の中で家族と共に暮らし、収容所への連行、ワルシャワ蜂起のあとも運良く生き延び、廃墟となったゲットーの中でほとんど孤立して生きる為のすざまじい日々の記録である。                                               Photo_4    
殆ど無人と化したゲットーの中で、飢餓と戦い、重い病気にかかり「もう限界」というときにワルシャワに派遣されてきたドイツ軍将校ホーゼンフェルトに見つけられ、彼の援助によって生きながらえることができた。・・映画は自らもユダヤ人として母をガス室で殺され、逃亡の日々を送ったロマン・ポランスキーが監督をし、ゲットーの惨状などについてはCG処理がなされそのすざまじさを表現している。映画は同年カンヌ映画祭のパルムドール(最高賞)、オスカー7部門など多くの栄誉に輝いたが、私は先に読んでいた原作のほうが胸を打つものが大きかった。                                                  
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原作は1946年「ある都市の死」という題名でシュピルマンが自身の体験を書いたもので、これが1998年ころイギリス、ドイツなどで出版、当時シュピルマンはピアニスト以外にポップス、子供向け音楽、ムードミュージックなど広範な分野で活躍するヨーロッパでも有名なポーランド人音楽家の第一人者だったため、その数奇な半生に多くの読者が衝撃を受けた。映画化は「戦場・・」が最初ではなく50年代にポーランド映画が作られたらしいが冷戦時代でそのあまりにも「政治プロパガンダとして歪曲された内容・・例えばシュピルマンがゲットー蜂起のレジスタンスのメンバーだったとか)であり、現在では過去に葬られている由。(シュピルマンについてのNHK特集で見た)                                       

「ザ・ピアニスト」は2003年の映画公開とともに「戦場のピアニスト」として再販されており、主Photo_7 人公の名前もスピルマン→シュピルマンに変えられた。文学(文章)に対して映像が持つ力は圧倒的であるけれども、こういう実話物に関していえば「映画の方が良かった」と思う作品は今だにあまりない。映画としては上手く出来ていても「原作とは違う作品」として評価するべきものなのかも知れない。(例えばベルトリッチの「ラスト・エンペラー」、映像としては圧倒的だったが、やはり溥儀の自伝「我的半生」に感銘を受けた。生身の人物がたとえ自己弁明を多々混えて書いたものであっても。)                                 

映画のメインストーリーになっているドイツ人大尉ホーゼンフェルトについても本の最後に遺Photo_3 族が提供した彼の日記の抜粋、彼が戦後どうなったかなどが載せられている。(写真右:本人の写真)彼は終戦後連合軍(ソ連)に拘束され、遺族がシュピルマンを通じて彼の解放に奔走、シュピルマンも極力協力するが連合国(ソ連)に拒否され最後はスターリングラード捕虜収容所で殺された。ホーゼンフェルトは召集されるまでは高校の教師で、人格者であった由。ドイツ軍大尉であってもユダヤ人を助ける行為は恐らく命がけであっただろう。「戦場の・・」映画の中でのシュピルマンとのやりとりに「お前」と字幕がでるが「原作ではDu(お前)ではなくSie(貴方)と書かれているから正しく訂正して欲しい」とシュピルマンの遺族(息子さん)から映画会社にクレームがついたという。ホーゼンフェルトは決してユダヤ人であるから蔑視するという人ではなかったのだ。                                                   

なおシュピルマン自身は2000年に89才で亡くなっている。本を読んだときに驚いたのはシュ ピルマンの息子さんのクリストファー・シュピルマン氏が日本人と結婚して長く九州に在住、東大、九州大学などあちこちの大学で教鞭を執られて、「シュピルマンの時計」(2003・小学館)を出版された。クリストファー氏はフランスやロンドンの大学で学び渡米してイェール大で研究生活を送り、そこで知り合った日本人留学生と結婚されたということです。 現在は福岡に在住、九州産業大学法学部教授としてご健在です。(今年で60才)Photo_8                                                    
何かとりとめもなく書いてしまったけれど今日のブログのまとめ「人間は逆境に置かれたとき、生きようという強い精神力を持たないと生き延びられない」と痛感したこと。心折れて早々にギブアップして自滅してしまうだろう、私などは。・・・とつくづく思う今日この頃です。

春が来て花が咲く・・数日前までは雪が降り積もっていたのに

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ここしばらく雪が降るほど冷え込むかと思えば、今日のように春の訪れを実感させられるような暖かい陽射しが降り注いでいる。私はといえば去年の終わり頃から時たま胸が締めつけられるような重苦しさを感じ、とうとう循環器科のクリニックへ、そして検査と相成った次第だった。職場の検診で心電図にひっかかったことがなかったのに、ここにきてようやくさまざまな苦労が積もり積もって心臓を痛めつけていたのだ。24hホルターというものをつけて検査した結果、胸苦しさの原因が判明「期外収縮」(2段脈)が発見された。Dr.の見立てでは「命に別状のあるモノではないので(つまり何らかの心臓病から来るモノではない)、放っておいてもよろしい。ただし睡眠不足、過労はダメ、適度な運動をする」ということで、一応無罪放免ということになった。しかし、胸苦しさ(不整脈から来る)は気にしだすと案外辛いものでなぜか疲れやすく、一日家にいる日ですら夕食後はどっと疲れる。サッカー・アジア大会以後はそちらの楽しみもなくなり、韓ドラも借りてきてもこれといって面白いモノもなく、ウツ傾向の日々を送っている。                                                 

ブログも大した内容でもないのに更新に案外エネルギーが要るのでついつい間隔があいてきている状態で、何とか「消えてしまわないように(ココログ管理人に消されないように)今日はつれづれなるままにあれこれの事どもを取り上げてみたい。                 

* 春がもう到着しています。・・・久しぶりに冬枯れの庭に出てみたら(ネコの額もありませPhoto_2 んが)あちこちに花が咲いていた。まず「雪割草」・・銘花とよばれる一鉢数万円もするものはひとつもないが、ヤフオクで愛好家から安く入手したものばかり。ちらほらと咲き始めていた。小さく地味な存在ながら、その可憐さは見る者の気持ちを癒してくれる。(写真下)ウチの花はどれも無名だが、私にとっては十分可愛い花ばかりだ。                  
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次にクリスマスローズ。これは東欧のトランシルベニア(ドラキュラ伯爵伝説の?)が原産地Photo_5 で(チベットの深山にもあり)近年、爆発的ブームが起こった。品種改良でさまざまな花容、色のものが流通しているが、そもそもは地味な白いクリスマスに咲く花だとか。私も興味半分に交配してタネを取り撒いたらほとんど全部が 発芽して40鉢もの自家産が育ち、あちこちに貰われていったが、まだまだ多すぎて狭い庭を塞いでいる。親株と同じ花色にならない(咲くまではどんな花か分からない)のがこれまたマニアにとってはスリリングな花なのです。(それでも我が家のはほぼ全部が親に似た薄いピンクの花だった。残念ながら親と同じ八重咲きはひとつもなかったが。           
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*フィギュアスケートの四大陸大会終わりましたね。全部は見なかったけど、男子のショートとフリーは見た。大輔くん、フリーで4回転ころんだけれど、彼ほど魅力的なスケーターは今まで見たことがない。3月の世界選手権で4回転成功させれば言うことなしの世界一です。

小塚選手はSPの失敗をフリーでよく挽回した。羽生くんは本当に可愛い「白鳥」だった。

女子は安藤がいよいよ彼女のスケート人生最盛期に入った感じです。真央はジャンプの基本からの修正からスタートしてよくぞここまで来たと驚嘆に値する。フリーでは3アクセル(3回点半)も成功、いよいよ世界選手権へ向けてベクトルは完全に上向きです。                   
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*サッカー、世界に羽ばたい選手たちのことを案じています。長友はインテルでスタメンでのフル出場。このまま怪我せずに定着すればおそらくアジア系選手の史上初ランクに上Photo_13 るでしょう。(パクチソンを越えて) 内田(ドイツ・シャルケ)、岡崎(同シュツットガルト)、川島(ベルギー・リールセSK)、吉田麻也(オランダ・フェンロ)、家長(リーガ・マジョルカ)etc・・数え切れないほど多くの選手がヨーロッパに出ています。                               

そうそう、陰ながら応援している長谷部(ドイツ・ヴォルフスブルク)のライバルとしてKリーグからク・ジャチョルが入団し、監督(リトバルスキー)からも絶賛されているとか読んで心配していましたが昨日のリーグ戦ではやはり長谷部がフル出場でホっとしています。ともあれ強いライバルがいること(ボランチ)はいいことではあるので長谷部君よ、ポジションを奪われないように頑張って下さいね。・・ということで今日のブログを閉じます。Photo_12

70年代”ニューシネマ”世代も今や定年後の日々・・・「アバウト・シュミット」(2002米)

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アメリカン・ニューシネマの金字塔ともいえる「イージーライダー」(1969)。デニス・ホッパー(監督も兼ねている)、ピーター・フォンダ扮する2人のヒッピーがコカインの密輸入で大金を手にし、ハーレー・ダビッドソンでカリフォルニアからニューオーリンズに向かうロードムービーである。途中から紛れ込んできたアル中のイカサマ弁護士のハンセン(ジャック・ニコルソン)とともにアメリカで最も保守的な”深南部(Deep South)”をバイクで駆け抜ける。「麻薬あり、アルコールあり、乱交あり」という何でもありの旅を続けるが、ハンセンは途中で住民の男たちに撲殺され、ハーレーの二人は通りすがりのトラックの運転席の男に狙撃され、道路端に転がって死んでしまうという衝撃的なラストであった。                                                         

その後デニスはいざこざ?からハリウッドを追われ、ピーターは自作の映画のヒットに恵まれず現在は田舎暮らしとか、ジャック・ニコルソンのみ健在でその後も多くの映画に出続けて多くの賞を受け、老いてなお健在である。                                                                   

「イージー・ライダー」の後「カッコーの巣の上で」Photo_2 (1975)もその怪演ぶりで高い評価を受け(この映画もニューシネマの中の秀作、私は観ながらこの人ワルモノかも?などと途中まで疑ったものだ)。」その後80年代以後は(むしろ職人的俳優として)数え切れないほどの映画でさまざまな役柄をこなしてきた。「シャイニング」「ア・フュー・グッドメン」「バットマンⅠ」などで見せた鬼気迫る狂気は少々辟易させられたが、こういうキャラの持ち主は他にいないという点で特異な存在だった。(ティム・バートン監督の「バット・マンⅠ」(1989)はあまりにもオタク向きで暗すぎるためアメリカではヒットしなかPhoto_3 ったが、私は「バットマン」シリーズではこれが最高、後は「・・・Ⅱ」まで見たが次第に下らなくなり見なくなった。ジャック・ニコルソンのジョーカーはあまりにもノリノリで怖面白い?。        
ヒースがジョーカーになった「ダークナイト」は未見だが。)                                        

「愛と追憶の日々」あたりから次第に彼の持つ狂気の匂いが薄まるとともに「偏屈で少々ゲスい爺さん」の役が増えてきた。「恋愛小説家」(1997)で「カッコー・・・」に続いて2度目のアカデミー主演男優賞を獲得(ここでは偏屈で「潔癖障害(病的な潔癖症)}のため医者にかかっている小説家役)、「恋愛適齢期」(2003)はダイアン・キートン扮する塾女をめぐってキアヌと火花を散らすバツイチ劇作家でこれは”ほぼまともな”中年男役だった。「恋愛小説家」よりも、私は「アバウト・シュミット」(2002)の方を評価する。Photo_12 (写真右:「恋愛適齢期」でダイアン・キートンと)

                                                  
「アバウト・シュミット」・・”シュミット氏に関して・・とでも訳すのだろうか、この作品は興行的にヒットしたわけでもないが一部で高い評価を得た。(ゴールデングローブ主演男優賞)       

ああ、とうとうジャック・ニコルソンもここまで人生きたんだなあ、という感慨に襲われるということもあるが、俳優ジャック・ニコルソンの俳優人生の集大成を見るような映画なのだ。全シーンほとんど彼のひとり芝居という構成。(もちろんそうではないのだが)            

ストーリーはネブラスカのオマハの保険会社を定年退職になったウォーレン・シュミット氏の定年の日以後の日々を描いている。会社の要職にあったろうシュミット氏は「自分がいなくなPhoto_4 れば会社は困るだろう」と再三、会社を訪れるものの後釜に座った「若造」に邪魔者扱いされるだけで「自分がいなくなっても会社は何の不自由もない」ことを思い知らされる。老いた妻との生活は退屈極まりなく「することがない」ので新聞の脳トレクイズなどで時間をつぶす。ある日「アフリカの子どもの里親募集」のダイレクトメールが来て、つい月22ドルを払って「ンドゥグ」というこどもの里親になり文通を始めることになる。(といっても氏からの一方的なものだが。以下、映画はウドゥグへの手紙の文のナレーションによって進む。(文中にシュミット氏がそのやるせない気持ちをついぶちまけてしまう)   

老妻の突然死(心臓麻痺か脳卒中)といきなりの葬式の段取り、妻亡き後の日常生活の不Photo_5 便さ、若い頃の妻の不倫の発覚(しかもシュミット氏の親友と。古いラブレターの束が見つかって)、そして可愛いひとり娘ジーニーの結婚など・・次から次へと煩わしいことが起こる。 

ジーニーはコロラド州デンバーで働いており、そこで知り合ったランドールなる男と結婚するという。この男がどうしてもシュミット氏の気に入らない。ウォーターベッドのセールスをしているが「新しい事業を起こしたいので投資してくれ」といいだす俗い男で出来の良い娘には釣り合わない。いろいろとやり場のない鬱憤を膨らませたシュミット氏は2週間後に結婚式を控えた娘に「早めに手伝いに行く」ことを申し出て「前日に来てくれればいいの」と断られ、とうとう有り金ででかいトレイラーハウスを購入し目的のない旅に出る。ンドゥグには「娘から早く来て手伝ってと頼まれたのだが、思い出の地を巡る旅をしていくことにしました。」と格好つけて。                                                   

Photo_6 この後はひたすらシュミット氏のアメリカ中西部の旅に付き合うことになる。彼の生家(すでにガソリンスタンドになっている)、出身大学(カンザス大)、「パイオニア・ヴィレッジ」や「バッファロービル・ミュージアム」など。(アメリカにもこういう記念館があって観光客を集めているのですね。)                                                  

そしてデンバーに到着。ランドール(婿)の実家が是非にというので泊めてもらうことになったがこれが一風変わった家族。母(キャシー・ベイツ、随分太りました。)をはじめ離婚した父とその妻(東洋系)も同居、弟も変わり者。シュミット氏は「こんな人々と娘をつき合わせたくない」と再度ジーニーに結婚の取り消しを求めるが娘は彼らと幸せそうにしており、逆に父をなじるばかり。                      

Photo_7 結婚式は滞りなく終わり、シュミット氏は立派な挨拶をして娘を満足させる。(婿の家族に対しては「開放的で飾り気なく迎えてくれた」と謝意を述べ)                     

ラスト、オマハの我が家に帰り着いたシュミット氏は届いていたンドゥグの住むホームのシスターの手紙「彼はまだ5歳で字が書けないのでいつも私があなたの手紙を読み聞かせています。彼はあなたをとても好いていて熱心に耳を傾けています。・・」そして同封されていた「ンドゥグとシュミット氏の手をつなぐ絵」を見て涙をこぼすところで映画は終わる。        

40年間ひたすら働いてきたシュミット氏のあまりにも寂しい老後、何もかも思い通りに行かない事々。しPhoto_8 かしシュミット氏は全て自分から折れて(妥協して)行く中で、奇妙な「自由」を手に入れたように思われた。そして自分の少しの善意(思いつきの)が遠いアフリカでひとりの幼い少年に夢を与えていることを知り涙するのだ。シュミット氏に幸せに長生きして欲しいと思わせられるラストだった。

青春時代、ハーレーで旅した尖がって狂気に満ちたジャック・ニコルソンは、老いてトレーラーを運転して自分探しの旅に出た。                  


(写真下:ハーレーのニコルソン(バイク右のうしろ)と老いたシュミット氏)Photo_9 Photo_10

久しぶりに観た「愛と追憶の日々」(1983/米)

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3月に今年度のアカデミー賞授賞式を間近にして、NHK・BS2がこのところ毎日午後9時から過去の「アカデミー賞受賞・映画」を放送している。昨夜、たまたまTVをつけたら「愛と追憶の日々」が始まったばかりだったのでつい観てしまった。この映画は同年のアカデミー賞各部門の数々にノミネートされ、シャーリー・マクレーンが主演女優賞を獲得している。(共演のデブラ・ウィンガーはノミネート)題名が「愛と追憶・・・」、これは前年にデブラがリチャード・ギアとの共演でブレイク、大ヒットした「愛と青春の旅立ち」を意識しての日本版のネーミングだと思うがあまりにもベタすぎてうんざり。現題は「Terms of Endearment」・・直訳すれば「愛することの限りある日々(期間)」とでもいうところか、まあ邦題にするのがむづかしいことはわかる。                                                   

公開直後に見たので今度は2度目になるが、最初のときは「ベタな典型的アメリカ映画」という感想であまりいいとは思わなかったが、昨夜再見して改めていろいろと感じさせられ、評価が少し上がった。                                            

テキサス州ヒューストン(近年のIT産業の進出やNASAの存在で全米第4の大都市に発展)に住む母オーロラ(シャーリー・マクレーン)とひとり娘エマ(デブラ・ウィンガー)の30年に及ぶ愛憎を描いたものだが、シャーリー(49才)、デブラ(28才)がほぼ同じ年齢の母娘を演じており、それだけでも先ず違和感がない。                               
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オーロラは夫を早く亡くし、ひとりで娘を育ててきた勝気な女性。身だしなみも派手すぎるくらPhoto_2 いに着飾り、住む家も庭も花で埋め尽くしている。言い寄るボーイフレンドも多いが、食事やパーティで自宅に招く良き友人として生活を楽しんでいる。娘のエマは母の期待に何ひとつ応えない飾らないぶっきらぼうな程ありのままの娘。ふたりは何から何まで合わず絶えずいさかい(口争い)をしている。娘がボーイフレンドのフリップと結婚するのも大反対、結婚式は欠席した。フリップは文学で博士号を取っているものの万年「大学の講師」、性格はアマちゃんで半分自立していないような青年。オーロラは彼をむしろ嫌っており娘は絶対不幸になると思っている。                     


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フリップがアイオワの片田舎の大学の講師に職を得てヒューストンを離れるがオーロラはやはりエマのことが気が気でなく毎日のように電話をかける。エマはここで次男を生み、夫不在(研究?のため)の中で2人の男の子を育て、3人目の女児を産む。生活は苦しく、スーパーに行ってもレジでお金が足らなくなり、見知らぬ実直な男性に貸してもらったり、果てはフリッPhoto_6 プが同僚の女性と浮気をしたりで家庭ではフリップとのいさかいが絶えず、幼いこどもたちも小さな胸を痛めている。スーパーでお金が足らなくなったとき、長男が「これ要らない」といって本当はとても欲しいチョコバーを差し出すところは泣かせる。レジ係の女性の横柄さをたしなめて不足分を支払ってくれた男性(実直な銀行員)と人目を盗んで会う瀬を重ねるようになったころ、フリップに転勤話が持ち上がり(ネブラスカの大学の文学部長だが給与アップなし)、しぶるエマをおいて勝手に決めてしまい一家はネブラスカに引っ越す。                     

Photo_7 しかしこの転勤が実はフリップの浮気相手の転勤についていくためとわかったエマは逆上し大学に殴りこむが、幼い娘とともにインフルエンザ予防注射を受けにいったときに胸のしこりが発見され、末期の乳癌とわかる。            

Photo_8 ネブラスカにやってきたオーロラはつききりでエマを看病、あてにならない娘婿の替わりに3人の孫の面倒を見、(とくに長男は母の不幸な結婚生活や、不倫まで知っており母を愛しながらも反発する)娘の最期を看取る。     

その間、ヒューストンの実家の隣に「元宇宙飛行士」サム(ジャック・ニコルソン)が引っ越してきて「元・・」の肩書きで連日女をくどく日々、下司で粗雑なヤツにオーロラは嫌がりながらも次第に近づき、恋人関係になってしまう。この男、粗雑に見えても心の温かい純なヤツで、病気の娘を抱えて大変なオーロラを励ましにわざわざネブラスカのリンカーンまでやってくるようなところもある。               
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最後は葬式の後、家族、エマの無二の親友のパッツィ、サムが庭で集まっているところで映画は終わる。                                                

エマを演じたデブラは「愛と青春・・」の時と変わらない垢抜けない田舎娘のキャラ、しかし幸 Photo_14 薄い人生だったのが母親ならずとも哀れだ。ジャック・ニコルソンはアクの強い個性そのまま。この後「恋愛小説家」や「恋愛適齢期」でも活躍し老いてますます存在感大だ。私は「アバウト・シュミット」が最も良かった。そして情けない夫のフリップを演じたジェフ・ニコルズ、最近観た「イカとクジラ」の髭だらけの冴えない中年の夫(こちらはブルックリンに住む小説家夫妻の離婚話)とわかって、時の流れに驚いている。                         

付記:「愛と追憶・・」は続編が作られた。「夕べの星」(1996)がそれで、エマ死後、3人の孫Photo_11 育てに苦労するオーロラの、思うようには育ってくれない孫たちに振り回される日々を描いている。孫娘をジュリエット・リュイスが、祖母に反抗して家出する憎たらしい役を演じている。ついでに借りてきて「もう一度観てみようかな」と思っている次第です。

まだまだアジアカップの話・・・チョン・グアンレ監督の誇り


数日前に読んだサッカージャーナリスト大住良之氏のエッセイ、とても印象に残ったのでその一部を引用させて頂く。「・・・(延長戦後半12分過ぎ?)無理な体勢でクリアした長谷部誠選手が倒れたままとなり・・自陣でクリアボールを拾った韓国は右に運び、日本陣に入って右サイドバックのチャ・ドゥリ選手がボールを受けます。ゴール前に入れようとする車(チャ)選手。日本の選手たちは「外に出してくれ」と叫びます。長谷部選手が倒れているのはペナルティエリアの左外。チャ選手がそのままボールを入れても直接の危険はなさそうです。ゴール前に入れようとするチャ選手。しかしそれを止めた人がいました。すぐ外にいた趙広来(チョン・グアンレ)監督でした。一瞬考えたチャ選手は左足でボールをタッチラインの外に出し、悔しそうな表情を見せました。(写真下:韓国代表監督チョン・グアンレ)                                   

韓国にとって、今回のアジアカップは何が何でも優勝したい大会でした。1956年の第1回大 会と次の60年大会で連続優勝を飾った韓国でしたが、その後は栄冠から遠ざかっています。アジア最多の7大会連続ワールドカップ出場を果たし、02年にはベスト4という金字塔を打ち立てた韓国のサッカー界にとって、受け入れ難い事実であるに違いありません。    

ベテランの朴智星(パクチソン)選手と李栄均(イヨンピョ)選手がこの大会を最後に代表から退くという話もあり、チームが一丸となって優勝を目指していました。・・・(中略)・・・     

チョン監督は現役時代に韓国代表として何度も日本と対戦し、負けたことがありません。試合中は徹底的に勝負にこだわり、選手にも審判にも叫び続けている熱い監督ですが、何よりも韓国のサッカー人として日本には絶対に勝ちたいという強い思いを抱いているはずです。

その人が日本に1点をリードされ、残り時間も少なくなったときに自らチャンスを捨てるよう選手に指示したのです。そこには国籍や状況を超越し、ひとりのスポーツ人としての強い誇りが感じられました。今回のアジアカップの中で、私が最も感銘を受けたシーンでした。」(以上 大住氏)   

私も覚えている、このときのこと。韓国にとっては絶好のラストチャンスになる筈だったがゲームが中断し悔しそうだったチャ・ドゥリ。しかしチョン監督の人となりを大住氏ほど知らない私は氏ほど強い感銘を受けなかった・・(やはりいろいろ知識がないとゲームを深く見られませんね。中田ヒデなどもこちらの好機でも相手が倒れたままのときは必ず蹴りだす選手だった。チームメイトにイヤな顔されながら)            

Photo_3 ここからは私の独断の推論。このあとロスタイム終了間際で本田拓也のファウルでFKを取られた日本は韓国の執念でとうとうゴールを割られて同点に追いつかれ、PK戦に持ち込まれた。・・・その最初の韓国のキッカーがグ・ジャチョル。彼は今大会で5点を上げ「得点王」に輝いた選手だ。一番手で蹴っても不思議はない筈だが、私は???と思った。(写真左:韓国の期待の星 グ・ジャチョル)                                 

PK戦でのPKの成功率は77%程度だという。どんな名選手でも外すものだ。それはPKが単に技術の問題ではなくキッカーとキーパーの心理戦争、メンタリティ、キッカーの一瞬の読みなどがとても大きいからといわれている。南アという大舞台でのPK戦を経験しているベテラン川島に対するグ・ジャチョルは余りにも未熟と思えた。彼がいくら得点王でもアジアカップが彼には初めての国際大会(東アジア選手権にも少し出たらしいが)、気持ちで負けるほうが自然だろう。PK戦は1番と5番のキッカーがキーといわれている。         

パクチソンを一番にするのは彼がキックに弱いのと、ましてや激しい運動量でゲームを終えた直後に、もしミスったらその後の韓国キッカーへの影響は計り知れないから蹴らせなかった。(これはどなたかが書いて おられた受け売り) ならばキッカーとしてチーム・NO.1のキ・ソンヨンは?・・ (写真右)        

チョン監督は本当は彼を一番にしたかったのではないかと私は思う。しかし敢えてしなかった。彼が試合中(前半のPKに成功した直後)にやった”チョッパリ(日本人への蔑称)への猿のしぐさ”で。相手チームを侮蔑するバカなことをした選手を1番手に置くことは恐らく監督にとって相手チームへの配慮の無さ、さらにソンヨンの行為を是認したと憶測されても仕方のないことだから・・。これはあくまで私の推測です。この推測によればキ・ソンヨンのスポーツマンシップにもとる愚かな行為で韓国はPK戦を落としたかもということです。(あくまでタラレバだが)何はともあれ、あれこれ思い出すことの多いアジアカップだった。しかし功労者は何といっても川島。「どこにも蹴らせないぞ」という威圧感は韓国選手にとっては恐怖だったことでしょう。

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「嘘だと言ってよ、ジョー!」・・アメリカを揺るがせたメジャーリーグ八百長事件・映画「フィールド・オブ・ドリームス」(1989)

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1919年のアメリカ・メジャーリーグ・ワールドシリーズの頂上決戦で圧倒的にその優勝を予想されていたシカゴ・ホワイトソックスがシンシナティ・レッズに3勝5敗で敗退するというサプライズが起こり、ホワイト・ソックスの選手たちの八百長疑惑が浮上、その1年後に大陪審での裁判に発展するという事件が起こった。この事件はマフィアがらみでレッズの優勝を賄賂で買おうとし、選手も同意した。しかし選手にカネを渡す前に仲介人が破産、さらに選手への「八百長をしなければ家族もろとも命はない」とのマフィアの脅迫などもあったことが明るみに出て、大陪審は「情状酌量の余地あり」として無罪判決を下した。しかし事件によって国民からの信頼を失いつつあった球界は、コミッショナー自らが大裁断を下し、関係した選手8人を球界から永久追放した。(エイトメン・アウト) これが「ブラックソックス事件」と呼ばれるアメリカ野球史上に残る八百長事件である。                             

だがこの裁断には不公平があり、全く八百長に関与しなかった選手(知っていたが報告しなPhoto_2 かった)を8人に含む一方、関わりのあった数名を野球の人気の維持のために追放しなかったことなどから、事件は「エイトメン・アウト」は「アンラッキー・エイト(不運な8人)」とも呼ばれている。表題の「嘘だと言ってよ、ジョー!(Say it ain't so, Joe!)」という呼びかけは大陪審で証言を終えたジョー・ジャクソンにひとりの少年が叫んだ言葉である。(写真左:右の選手がジョー・ジャクソン)                  

この事件で八百長を承諾した選手たちが今だに多くのアメリカの野球ファンから愛惜の念を持って語られているのは当時のシカゴ・ホワイトソックスのオーナーがドケチで全米で最低の賃金しか選手に払わず、ユニフォームのクリーニング代まで自前で支払わせていたため(チームネームのホワイトソックスまで)「ブラックソックス」とジョークを言われていたこともあり、待遇改善要求に応じないオーナーへの選手たちの不満は以前からくすぶり続けていたのである。(その後ソックスは実用的な?黒に変えられた?・・というのはブラックジョークで現在もシカゴ・ホワイトソックスはあります。)

        

永久追放された8人はその後それぞれに不運な人生を終えたが、中でも最も人気のあった外野手ジョー・ジャクソンは貧しい家庭に育ち、マイナーリーグ時代は足に合うスパイクが入手できず、裸足でプレーしていたことが多かったため「シューレス・ジョー」というニックネームで呼ばれていた。(写真下:とうもろこし畑から現れた幻のジョー)Photo_4
ものがたりは60年代末~70年代にベトナム戦争を機にアメリカに吹き荒れた「カウンター・カルチャー(反体制的文化)」の影響を受け、挫折して大学の同級生の妻の実家のアイオワ州の片田舎の町に帰ってきたキンセラ(ケビン・コスナー)が慣れない農業で生計を立てるため、借金に苦しみながら働く日々から始まる。そんな彼にある春の夕暮れ、誰かの声が耳元で聞こえる。「それを作れば誰かが来る(If you build it, he will come)」 彼は妻のアニーの協力でとうもろこし畑をつぶして野球場を作る。来る日も来る日もひたすら畑をならし、土を耕して。 Photo_3                                                   
そしてとうとうある夜、誰かがやってきて野球をしているのを見つける。それはあの「シューレス・ジョー」だった。そして次の夜もその次の夜も・・。人数は次第に増えて「エイトメン・アウト」 ばかりか、かってのホワイトソックスの選手たちまでがとうもろこし畑の中から現れて、キンセラの作ったグランドで思い思いにキャッチボールをして楽しむ。だがキンセラが本当に会いたかったのは亡き父だった。(私の解釈?)父はホワイトソックスの大ファンで八百長事件の時も頑として選手たちを擁護し、彼らを非難する息子(キンセラ)と激しく対立した。父と息子は何についてもことごとく折り合わず、息子は17才の時大学に入るために家を出、父の葬式まで帰郷しなかったのだ。                                          
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ラストシーン、若かった父が現れる。いつもキャッチボールの相手をしてくれていた頃の。再Photo_9 び父と子は長年の空白を越えて出会い、キャッチボールをするのだ。(写真右:かってはホワイトソックスの選手になることを夢見たことのある若かりし父)

Photo_6 ものがたりでいろいろ飛ばしたが、この映画には伝説的プレーヤーとされているムーンライト・グラハムも登場する。グラハムは3年間マイナーリーグでプレーした後1905年にニューヨーク・ジャイアンツに入団、その年の6月29日のブルックリン・スパーバス戦で8回裏に外野手として1イニング出場したが、打順が回ってくる前に試合終了し「打席なし」の記録を残してメジャーを去り、医師となって人生を終えた選手だ。今は亡き名優バート・ランカスターが演じている。(写真左、彼の最後の作品になった。)                                  

さらにこの映画のものがたり当時のアメリカ(とくに保守的な田舎)で盛んだった「学校での不良図書追放運動」。標的になった代表的な本は「ライ麦畑でつかまえて」(J・Dサリンジャー)。映画でも娘の小学校の夜の保護者会で、妻のアニーが「ライ麦・・」を不良図書として追放しようとする人々に反対して熱弁をふるうシーンが出てくる。さらにサリンジャー(本人が実名を許可しなかったためテレンス・マンという名で)らしき小説家も。                

映画「フィールド・オブ・ドリームス」はアメリカでヒットし、アカデミー何部門にもノミネートされた。アメリカ人はベースボールをこよなく愛するのだなあと思った。この映画は「大人のファンタジー」でもあるが『生前になし得なかった亡き父との和解』『エイトメン・アウト、とりわけシューレス・ジョーへのオマージュ』がテーマか?・・そしてさらに『70年代のカウンターカルチャーへの回顧』などを色濃く描きだしている。 なおこの映画には原作があり(「シューレス・ジョー」W・P・キンセラ」)映画を見た後、文庫本で読んだが、映画では分からないことも多く記されていて面白かった。              

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付記:① 映画で「ライ麦畑・・」が不良図書とされたのは当時の全米的な風潮で、きっかけはPhoto_8 1980年にジョン・レノンを射殺した犯人の青年がこの小説を愛読していたこと、レーガンを狙った青年も同じくだったことらしい。私は主人公が高校(大学だったかも?)を4回も放校になったり、彼の先生がホモっぽかったりで内容的なものからかと思っていた。また原作では」「ガッデム」「ファック」など普通の人なら眉をひそめるようなスラングが随所に出てきたことも批判の対象になったことは聞いていたが・・。

(写真右は白水社版、我が家に或るモノ。最近は村上春樹氏が「キャッチャー・イン・ザ・ライ」で新しい雰囲気の翻訳をされているそうです。)   

アメリカでは学校図書館から「不良図書」とレッテルを貼った本を追放する困ったPTAがいるようです。例えばダーウィンの「進化論」ですら聖書に反するということで置いていない(置かしてもらえない)学校もあるとか。(ブッシュ氏の支持団体・キリスト教原理主義の人々)              

② 今日のブログのテーマは「大相撲八百長事件」にヒントを得たものですが、こちらについてはもはやコメントなし。あまりにも組織全体が重症なので。

少女になったジュディ・デンチ・・・「ラヴェンダーの咲く庭で」(2004・英)

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あるスキャンダルの覚え書き」の2年前、ジュディ69才の作品である。舞台はイギリス・ウェールズ西端のコーンウォール地方、45才のアーシュラと3つ年上の姉ジャネットは退役軍人Photo_2 の父がこの地に隠遁し亡くなったあとふたりきりで住んでいる。ある日姉妹は海岸に打ち上げられて意識不明になっている青年を発見し、村人の助けで自宅に連れ帰り看病、以後数ヶ月にわたり足を骨折した青年は姉妹と家政婦ドルカスの手厚い看病で元気を取り戻す。 

村人たちの寄せ集めの知識や経験でわかったことは青年の名前はアンドレア、ドイツ人でヴァイオリンが素晴らしく上手であるということ。村人のひとりが持っていた古いヴァイオリPhoto_5 ンを夢中で引きこなすアンドレアに皆うっとりと聞き惚れるのだった。とりわけこの青年に一目ぼれ(初恋?)したうぶな妹のアーシュラは朝夕の散歩、村の祭り、共に過ごす日々に初めて体験する幸せを感じていた。しかし丁度第一次大戦直前のイギリスではドイツへの反感が高まり「彼はひょっとしてドイツのスパイでは?」と一部の村人がささやき始めていた。   
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ところがある日この村に見知らぬ若い女性画家オルガが訪れ、村に留まる。そしてたまたま アンドレアの演奏を聴いて驚き、すぐに丁度ロンドンに演奏旅行に来ていた著名なヴァイオリニストの兄に連絡する。アンドレアもまた若い著名なヴァイオリニストだったのだ。「兄がロンドンに滞在中に急いで行かないと」とオルガに促されたアンドレアは姉妹に別れの挨拶をする暇もなくロンドンに去ってしまう。落胆するアーシュラ・・。                    

そしてしばらく過ぎたある日、アンドレアから姉妹にロンドンでのコンサートへの招待状が届く。姉妹は汽車でロンドンへ・・。そしてアンドレアの晴れ姿を見、彼ともつかの間の挨拶をしてもう2度と会うこともない彼とロンドンを後にして村に帰る。        
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コーンウォールはケルト文化の強く残った地方で7世紀のアングロサクソン人の侵入(アングロサクソン7王国)の際にイングランド各地からコーンウォルに逃げ込んだブリトン人(ケルト人、ローマ時代に移住したラテン人の総称)が多く、15世紀までケルト語(コーンウォール語)を話し、アングロサクソンの支配への抵抗で多くの人々が殺されたという。有名な「アーサー王伝説」のアーサー王もこの地のブリトン人の英雄とする説が有力である。       

Photo_8 また17世紀のピューリタンの「メイフラワー号」もこの地のプリマス港(現在はイギリス有数Photo_9 の軍港)から出航し、アメリカ東海岸のニューイングランドに上陸した時、ピューリタンはここをプリマスと名づけたことも有名である。(現マサチューセッツ州)入り組んだ海岸線、海に突き出た崖、村を囲む牧草地や牛の群れなども映画の魅力のひとつとなっている。         

青年を演ずる俳優ダニエル・ブリュールは「グッバイ・レーニン」でブレイクしたドイツ人の父とカタルーニャ人の母を持つ青年で前作の「グッバイ・・」とはまた違った趣を見せている。美青年というより誠実な好青年という感じでアーシュラの初恋の相手にぴったりだ。         

Photo_14 ラストのコンサートで彼がオーケストラとともに演奏する「ヴァイオリンと管弦楽のためのファンタジー」はこの映画のために作曲家ナイジェル・ヘスが作曲したもので2007~08年に浅田真央がこれでショートプログラムを滑って世界的に有名になった曲。(写真左:ラヴェンダー色のコスチュームで踊る真央)ロマンチックな曲です。                    

最後にジュディ・デンチ、容貌は老女でも内面は全く純情な恋一筋(しかも相手に知られてはならない)の少女でした。すごい女優さんです。 Photo_12

孤独な老女のすざまじい偏愛・・・「あるスキャンダルの覚え書き」(英・2006)

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久しぶりに映画を見た。つねづね見たいと思っていたのが、たまたまTSUTAYAにあるということで借りてきてもらったのだ。(TSUTAYAもハリウッドの大作は一度に何十本も並ぶがマイナーなものは探すのもむづかしく、さらにもっとマイナーな(しかし評価の高い)映画は置いてもいない。(リリースしていないのもあるかも?)                         

イギリス映画界の大御所ジュディ・デンチ(すでに70才台後半)と今いちばん脂の乗り切った(と私が評価する)ケイト・ブランシェット(40才越えたばかり)の競演ともなれば、否が応でも見ずにはいられない。

ものがたり:ロンドンの下町にある労働者の子どもたちの通う中学校の歴史の教師バーバラPhoto_2 (ジュディ・デンチ)はすでに定年1年前の大ベテラン教師。(おそらく)10年1日の変わらない内容の面白くもない授業を続けてここまで来たのだろうが、絶対に授業中に生徒を騒がせない威力を持っている。プライド高く、校長にすら上から目線で同僚からも敬遠されている存在で学校では孤立している。あるとき新しい美術の教師シーバ(ケイト・ブランシェット)が新任でやってくる。シーバは中産階級の(恵まれた)主婦だが、子どもの手がようやく離れ(思春期)主婦では埋められない虚しさから社会に復帰をしたのだ。大柄で個性的な魅力に溢れる彼女に同僚たちは大いに惹き付けられ、彼女に近づこうとする教師も多い(女性も)中でもバーバラはシーバに最も惹きつけられる。                                

あるとき悪がきの生徒たちにちょっかいを出されているPhoto_3 シーバを助けたことから彼女の信頼を得たバーバラは彼女をお茶に誘ったり、彼女の家庭に招かれたりする。そしてある夜バーバラは決定的なシーバの秘密を目撃する。文化祭?の夜、全校が体育館のイベントに参加してひと気のない美術教室でシーバが教え子の少年と情事にふけるのを・・。シーバが教え子と性的関係を持ったのは、彼女が学生時代に教師と不倫した結果結婚したこと(夫は妻子を捨て)、従って夫はかなり年上であり、シーバの良き保護者的存在だが既に彼女にとって異性ではない存在でシーバは夫では充たされない欲望を衝動的に少年に感じたということだった。                                                   

Photo_4 バーバラはシーバの秘密を握ることで彼女を自分の支配下に置こうとする。彼女をアパートに招いたり彼女の家のアトリエで二人だけの楽しい時間をすごすのだ。バーバラはシーバの唯一無二の親友として彼女の家族(夫やこども)よりも大切な存在になろうとする。しかしそれは叶わなかった。バーバラが孤独を慰めるために愛してやまなかった飼いネコが不治の病気になり安楽死させることになる。(イギリスでは動物を苦しませない為、獣医はすぐに安楽死をすすめるみたいです。日本では一度、獣医さんが飼い主に「もし望まれるなら」といっていたのを聞いたことがありますが滅多にない。「動物は、はたから見て可哀想でもそんなに苦しんでいない。最期までしっかりみとりましょう。」といつか新聞で飼い主の安易な安楽死の要望を批判している獣医さんの記事を読みました。ちなみに私は犬1匹、ネコ6匹を自宅で看取りました。)                                              
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バーバラはひとりではその場に立ち会う勇気なくシーバに付き添いを頼むが、彼女は息子の劇を見るために家族全員で出かけねばならず、パニックに陥っているバーバラを拒否(仕方なく)して出かけてしまう。・・・・そしてここからバーバラの復讐が始まるのだ。ネタバレになるので筋書きはここで終わるが圧巻なのがバーバラの執念というか思い違い。シーバは人のいい夫(かなり年上の)と子どもたちよりもバーバラを選ぶ(人生の道連れとして)筈がないのにひとりよがりでシーバに尽くすバーバラ。                            

ふたりの関係はシーバのほうはバーバラを「頼れる大先輩」としか見ていないのにバーバラPhoto_6 は「親友以上の異性への愛・レズビアン」的愛情を持ち、シーバの髪の毛、持ち物をコレクションし、克明にシーバを観察して記録(日記)を書く異常さ。そしてシーバに拒否された後、彼女を犯罪者にし(実際イギリスでは未成年の生徒と関係した教師は実刑)家庭を破壊する。さらに過去にもバーバラはある女性をストーカーして「接近禁止」の命令を受けていたことがあった。そしてラストでもシーバを失ったバーバラは新しい女性を求めて近づいて行く・・。                                 

サスペンス風に展開するので見終わった後は「ふう」と吐息が出た。ジュデイ・デンチの怖いまでの執着とケイト・ブランシェットの「世間知らずの主婦、しかしアーティストとしてのデカダンスな魅力を持つ」が見ものだった。夫役のイギリスの名脇役(ビル・ナイ)も「私だったらこの夫で十分」と思わせる非世俗だが自由人、妻や子どもを愛する良き夫を好演していた。  
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結論としては期待していた程の映画ではなかった。ここまで異常になるバーバラの孤独がさほど伝わって来ないのだ。しかし名女優ふたりの「丁丁発止」は見応えがあった。                                        

付記:そういえばジュディ・デンチとケイト・ブランシェットのふたりとも、たまたま1998年にエリPhoto_7 ザベス1世になっていますね。「恋におちたシェイクスピア」と「エリザベス」。「恋におちた・・」は芝居小屋にお忍びで通い詰める女王をジュディが数分だけ出ていた(しかしこれでアカデミー助演女優賞を得た)、小柄ながら存在感は大きかった。                           




「エリザベス」の方はケイトがブレイクした作品で、大柄な上に白塗りの顔で物凄い迫力、「え?こんな女優いたの?」と彼女を初めて見た私はびっくりしたものだった。「私は国家と結婚しています」とフェリペ2世を拒否する貫禄十分。Photo_8 下はジュディ・デンチと本当のエリザベス女王(2世ですが)Photo_10              

そして新たなる旅立ち・・・長友佑都のインテル・ミラノへの移籍

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サッカー・イタリア1部リーグ(セリエA)に属するインテル・ミラノへの長友の電撃移籍は日本中のサッカーファン(ならずとも)を驚かせるニュースだった。彼はかねがね『世界一のサイドバックになりたい』と公言していた。インテルは昨季4連覇を果たし、これまで一度も2部落ちしたことのない名門中の名門クラブ。ヨーロッパ3大リーグといわれるセリエA、リーガ・エスパニヨーラ(スペイン)そしてプレミア・リーグ(イングランド)の中でもトップクラスのチームだ。

「インテルは長友の交換要員として、20才のイタリア人DFサントンをチェゼーナに期限付き 移籍させた。DFだけでもマイコン、ルシオ(ブラジル)、サネッティ、サムエル(アルゼンチン)、キブ(ルーマニア)ら豊富な金曜を誇るインテルだが、左サイドバックが現状での補強ポイントで、クラブとしても長友に定位置確保の期待をかけた移籍といっていい。」(以上2/2毎日朝刊)                                                  

条件は一応「今期終了まで」という期限付きながら、契約直前にチェゼーナが長友の保有権をFC東京から買い取ったということは、今後の完全移籍を見据えてのことだとは大方の見方である。愛媛県出身のこの小柄な選手は『女手ひとつで3兄弟を育ててくれた母親を早く楽にしてやりたい』という(愚息に頭を悩ます多くの親には羨ましい限りの)強い動機でサッカー人生を歩み始めた。明大時代にFC東京の監督原博美氏(現JFA技術委員長)の目に留まりFC東京へ。その後急速に頭角を現わし岡田ジャパンで代表に招集、以後の活躍ぶりは改めて書く必要もあるまい。                                        

このたびの長友の飛躍は彼にとって「世界一のSBになる」を実現させるビッグ・チャンスであるが、一方大きなリスクを抱えてのことであるのはいうまでもない。それは過去の例、例えば中田英寿の歩んだ道を思い出せばいい。                               

ヒデは21才の時、念願の海外移籍を果たした。(このときの記者会見で彼が通訳なしで流暢なイタリア語で記者の質問に応えるのを見て驚愕した。彼の並々ならぬ移籍への執念がみられた会見だった。)そしてペルージャ移籍後、シーズン開幕戦でジダンを擁するユベントスから2ゴールを奪うという華麗なデビューを果たし、年間10得点を挙げて当時の日本人海外リーグ最多得点を記録し、その年のセリエでの最有名人プレイヤー、イタリア最有名スポーツ紙の年間MVP新人賞を得た。                          

しかし翌年名門のASローマに移ったころから栄光に陰りが見え始める。(ペルージャにとってはタダ同然でアジアから拾ってきた選手を高額で売り飛ばす美味しい話だが、選手にとってはビッグクラブへの移籍は大きなステップアップのチャンスになる。しかし大きなリスクチャレンジを抱えることにも)                     

ローマにはすでにヒデの希望するトップ下にはカリスマ・スター選手「ローマの王子」と呼ばれチームの象徴ともされるトッティがいた。ヒデは中盤の底で起用され、トッテイが欠場の時のみトップ下でプレーする「トッテイのバックアッパー」に甘んじることになったのである。そしてその後はパルマ、ボローニャ、フィオレンティーナを渡り歩き、ドイツW杯の直前の2005年にプレミアのボルトンに移籍する。しかし結局ここでも定位置は獲得できず不本意な結果に終わり、ドイツ杯を機にサッカー人生に終止符をうつことになった。  
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ビッグクラブへの移籍は世界レベルのスター選手との過酷なポジション争いを伴うということ と(写真上:長友はオランダ代表の推進力スナイデルともチームメイトになる)さらに監督との関係の好悪も選手人生上大きなファクターとなる。監督が替われば、お気に入りの新しい選手を呼び込むことは当然だし、よほどのスター選手でもない限り、ポジションを追われる危機にさらされる。ヒデも移籍先で何度もそういう憂き目にあってきている。(昨年、ヴォルフスブルグの監督が替わり長谷部が以後少し辛くなっているのが心配だ。)   

「韓国のヒーロー」パクチソンの場合は幸運も手伝ったと思う。(勿論彼が有能であったという ことが前提だが)Kリーグのドラフトにもかからず、パープルサンガの某コーチに見出されて日本でプロデビュー後、日韓W杯でヒディングに見込まれてオランダに移籍、ここから天下のマンUに移った。マンU移籍にはヒディングですら大反対したという。しかし彼の能力(労を惜しまないプレー、さまざまなポジションができるマルチプレーヤー、強いメンタリティに加えて誠実実直な人柄)を評価するファーガソン監督の長期政権(1986年来25年間)が彼にとって大きな幸運であったことも又事実であろう。(写真右:サーの称号を持つファーガソン)                              

長友もすでに今年で25才、選手として先が十分あるとはいえない年齢である。彼を見込んで移籍させたレオナルド監督(かって2年ほど選手として鹿島にいた)の期待に応えて、インテルの定位置(SB,または左MF)を確保するべく、ベストを尽くして欲しい。(頑張り屋の彼に、こう書くのはおこがましいが) 期待しています。             

「黒い宝石」サミュエル・エトゥー(カメルーン代表)

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