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「三陸海岸大津波(吉村昭著)」1970・・改めて思う、東北大震災は「想定内」であったと・・

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今回の3:11東北大震災で、吉村昭著「三陸海岸大津波」が再び世間の脚光を浴び、読者が増えているということで、私も早速、市の図書館に予約していたのが入手できたので読んだのだ。吉村昭のファンを自称する私は恥ずかしいが彼のこの著の存在を知らなかった。当初は「海の壁」という題をつけて世に出したのが「あまり気取りすぎているのではないかという反省」で文庫版にするときに題名を変えたと”あとがき”で記されている。記録されている内容は   

*明治29年6月の津波(1985)                                    

*昭和8年の津波(1938)                                        

*チリ大地震による津波(1960)                                   
の3つの大震災であり、いずれも作者の現地での丹念な聞き取りによってわかった事実のみが淡々と記されている。著者の吉村昭は「戦艦武蔵」でドキュメンタリーというよりも”記録小説”というジャンルを開いた作家で、丹念な資料収集、読み込み、現地取材、関係者への聞き取りという方法により、作家の主観を可能な限り排し、客観的かつ冷静な文章が特色の作家で、読者はその静謐な文体と内容に、逆に作者の強い思い入れ(主観?)を読み取り感動するのだ。(ちなみに「戦艦武蔵」はこの巨艦が作られる過程からレイテ沖で撃沈するまでを記録したもの)                                               

*明治29年の大津波・・・これを実際に経験した人(当時は子ども)が殆ど生きていないという状況の中で、高齢のわずかな数の生存者からの聞き取りによって生存者の記憶による証言が記されてている。(震災からこの本が書かれた年まで既に80年近い歳月が経っている)
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主たる被災地となった青森、岩手、宮城三県は豊富な水産資源に恵まれた漁場ではあったものの、内陸部と通じる道やインフラは当時殆どなく、村々は互いに孤立し(辛うじて船で行き来)貧しい暮らしをしていた。津波の予兆は例をみない湿気の多い梅雨期の不漁とそれに続く急激な豊漁があまりにも奇異であったこと(海岸近くに押し寄せてきた大マグロのすざまじい群れ、鰯やうなぎの大漁。しかしその40年前の「安政の大地震」での大津波で多数の死者の出た三陸海岸はこのときも同じように直前に異様なまでの大漁があったと当時村の古老が記憶していたという。                                        

6月15日夜、昼間から続く数回の弱震をあまり気にもとめず家々では端午の節句の祝い(旧暦)のPhoto_4 席が設けられていた。しかし夜8時を過ぎたころから海は動き始めていたのである。長大な(場所によっては1キロ以上)引き潮によって海岸線は遥か彼方に遠のき『、闇の沖合いで異常にふくれ上がると、満を持したように壮大な水の壁となって海岸方向に動き出した。・・「ドーン」「ドーン」という音響を耳にし・・或る者は、それを雷鳴かと・・また或る者は、大砲の砲弾を発射する音のように聞いた。』『すさまじい轟音が「三陸海岸一帯を圧し、黒々とした波の壁は、さらにせり上がって屹立した峰と化した。・・波はすさまじい轟きとともに一斉にくずれて部落に襲いかかった。・・人々の悲鳴も、津波の轟音にかき消され、やがて海水は急速に沖にむかって干きはじめた。家屋も人の体も、その水に乗って激しい動きでさらわれていった。・・』『津波は、約6分間の間隙をおいて襲来、第一、第二、三波を頂点として波高は徐々に低くなったが、津波の回数は翌16日正午ごろまで合計十数回にも及んだ。』               
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聞き取りが行われた古老(中村氏・高台の自宅が津波に呑み込まれた)の家に導かれた吉村昭は同行した村長からこの家が海抜50mの高台に位置することを聞き驚愕する。この大津波でもっとも被害の大きかった岩手県の気仙郡ではほぼ村人が全滅するという村々が多く出た。(メディアで聞きなれた「田老地区(村)」も全滅)                      

話は変わるが、現在被災地からのレポートを担当する報道関係者に「心の病気」が急増しているという。その理由はTVで放映されないすさまじい遺体の山々(多くはむごたらしく損傷されている)、手が回らず放置された遺体が発する悪臭などで精神的に打ちのめされてしまう者が多いという。この明治29年の津波においても住民の5割~10割の死者を出した村々では遺体の収集作業すらおぼつかなく長期にわたって放置された多数の遺体の山は地域全体にすさまじい腐敗臭を放っていたという。                                       

*昭和8年(1933)の大津波・・1929年に始まる世界恐慌の波は東京大震災(1924)と引き続く金融恐慌の打撃から未だ立ち直れていない日本経済に決定的ダメージを与えた。さらに1930年~34年の東北地方の冷害による大凶作はかの宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の詩の背景となり(賢治は1934没)、「村で寝るふとんのある家が皆無」「村役場が娘の身売りを斡旋」など目を覆うばかりの惨状をもたらした。(写真下:村ごと喪失した田老町)
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このような時期(1933)に到来した大津波は明治29年と同じく、その被害は岩手県が最大で、青森、宮城がこれに続き、人口が全滅に近い被害を受けた村々も多くあった。前兆としては「井戸水の混濁、渇水」、「異常な豊漁」などが見られ、海の彼方の砲声音のような響きが各地で聞かれた。地震は3月3日の夜半、午前2時32分。凍りつくような寒さのためいったん戸外に出た人々が再びふとんにもぐりこんだ十数分から30分後、3回から6回の大津波が襲来した。悲惨を極めたのは田老、乙部地区で全戸がほぼ波に呑まれ、1900人の村人のうち生存者は36名、他にマグロ漁のため沖合いに出ていた60名の猟師が助かった。     

*チリ地震津波(1960)・・この津波は「地震の後に津波が来る」という住民の常識を覆しPhoto_8 、5月24日、最初は異常なまでの引き潮が始まり、午前4時半頃から津波が押し寄せてきた。「海水が膨れ上がってのっこ、のっことやって来た。」「海面が平面的にふくれ上がり、街路や家々が静かに水の中に浸っていった。」と住民の証言が記されている。            

津波は陸に這い上がり人家を呑み込み奥のほうにすすんでいった。大船渡市赤沢地区では電報電話局の2階まで水没し、他の人家は全て流失してしまった。幸いなことに建設されていた防潮堤の存在、夜明けという時間帯であったことなどから失われた人命は岩手県だけで61名と少なかった。この津波に関しては多くの記録、証言が残され、小学生たちの作文集としても保存されている。                                          

三陸海岸を愛し、幾度となくこの地を訪れている吉村昭は結びでこう記している。「津波は、自然現象である。ということは、今後も果てしなく反復されることを意味している。海底地震の頻発する場所を沖にひかえ、しかも南米大陸の地震津波の余波を受ける位置にある三陸海岸は、リアス式海岸という津波を受けるのに最も適した地形をしていて、本質的に津波の最大災害地としての条件を十分すぎるほど備えているといっていい。津波は、今後も三陸海岸を遅い、その都度被害をあたえるにちがいない。」                           


Photo_9 吉村昭氏は「都会の海は単に汚れた水の溜まり場に過ぎない。私が三陸海岸を愛するのはこの地の海が人々とともに生きてきた海であり、今も人々の生活に溶け込み、共に日々の暮らしを営んでいることに感動するのだ。」と記している。                      

時には巨大な怪物と化して人間の生命すら奪ってしまう海。しかし人々は決して海から離れようとせず ”万里の長城”のような防潮堤を築いてでもこの地で生きてきたのだ。先日TVを見ていたら南三陸町(だったか)の漁業にたずさわる人々は、今後もあくまで被災跡地に新たな町を作ろうとしていることを知って驚きというか感動すら覚えた。彼らは「今までの防波堤がダメならもっともっと巨大で頑強な「万里の長城」を作ってでもこの地を離れたくないのだ。(写真右下:「田老万里の長城」と呼ばれた防波堤:大津波はこれを越えて町を呑み込んだ)Photo_12

最後にこのような世界有数の大震災地帯であるということを知りながら福島、女川、六ヶ所村、そして茨城・東海村の「核燃料製造施設」などを作ってきた政治と企業の狂気に改めてショックを受けた。さらに8世紀初(平安初期)の「貞観の大震災」(日本三代実録)が今回の大震災にきわめて類似点が多いこと、地質学者たちの地道な地層の現地調査、研究・解析によってその実態が(津波の高さ、浸水地域など)」かなり明らかになっているというその報告書すら真摯に読もうとせず恐らくは”デスクの肥やし”にしていたであろう東電の「不真面目・根拠のない楽観主義」はもはや何をかいわんやである。ましてや「今回の震災は想定外の規模であった」という理由で「賠償の免責」を言いはじめている東電元社長・ 清水某のあつかましさには呆れるばかりである。二重の被害を受け(放射能汚Onagawa 染)かけがえのない故郷を失った人々に対する責任は未来永劫に償うことはできない。(写真は、辛うじて持ちこたえた女川原発。明治29年の大津波の中心被災地に立地。)                                                  

付記: 作家・吉村昭の作品は歴史からテーマを取ったものが多く私が初めて氏の小説に 出会ったのは「長英逃亡」(毎日・夕刊小説)でその後「ふぉん・しいほるとの娘」など幕府の迫害に耐えて洋学(蘭学)を修めた人々の生涯を描くものをいくつか読んだ。さらに短編「帰艦セズ」・・海軍の少年兵が「天皇の下賜品」として命よりも大切と教えられたアルミの弁当箱を演習時の山林で紛失し、それを捜し求めて最後に餓死しているのが見つかった・・を読んで(これも実話をもとに書かれている)強い衝撃を受けたことを憶えている。 

吉村の小説には作家の主観や心情などは極力排されているが、氏の「エッセイ集」には私生活のもろもろ(津村節子氏 は妻で小説家)、各地への取材旅行のあれこれなどが記されており、私はこちらも好きで図書館にあるものは全て読んでしまった。吉村は少年時代に両親が病死、大学で文学に巡り合うが中退して兄とともに弟妹を養いつつ(時には行商も)小説家になった。「冷たい夏、暑い夏」は中年になった弟を癌で亡くした(入院生活から葬式までの)経験を記して、吉村の誠実な人柄がしのばれる作品である。なお吉村昭自身も2007年にすい臓癌で亡くなった。最後は看護する娘さんに命綱の点滴を外すように指示されて亡くなられたという。     

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