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2011年6月

あまりにも知らなかったイスラエルの内情・・・映画「約束の旅路」

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イスラエル。第2次大戦後の1948年に建国されたユダヤ人の国。19世紀末から次第に高まったユダヤ人のシオニズムは旧約聖書にあるユダヤ人の故郷シオンの丘(エルサレム)に帰ろうというパレスチナ帰還運動となった。それは最初はユダヤ人個々の入植という規模であったが、イギリスのユダヤ系財閥・ロスチャイルドとイギリス政府の支援によってユダヤ人国家の成立という形で実現した。

私のあいまいな世界史の知識によると、地中海東岸のパレスチナの地にユダヤ国家が繁栄したのはB.C.1000年頃のダビデ王、ソロモン王の時で、その王国も紀元1世紀頃ローマの支配下に入り、ユダヤ人は各地に離散したという。(旧約聖書の伝説による)イエスが生またのはこの頃のことだといわれている。                          

何しろそれは今から2000年以上も前のことだからその後ここはアラブ人の居住地になり、長くオスマン帝国の支配を受けることになった。しかし帝国の衰亡とともに勢力を伸ばしたイギリスは第1次大戦中にこのパレスチナの地にユダヤ国家を建国することを約束していた。(バルフォア宣言) しかし他方ではこの地のアラブ人に対しても、アラブ人のトルコからの独立運動を利用するためにアラブ人の独立国家建設を約束したのだ。(マクマホン宣言)                                      

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「アラビアのロレンス」(1962/イギリス映画)はアラブのベドウィンの英雄「鉄道爆破王」ロレンスが、アラブ人を率いてオスマン・トルコからの独立をめざして戦った結果、イスラエルを建国させた祖国イギリスに裏切られ、自殺(事故死説もあり)するにいたる悲劇を描く壮大な叙事詩的な映画だった、。 Photo_2           

イギリスがパレスチナの地にユダヤ国家を建設する後押しをした意図は、西アジアのアラブ人の独立運動への牽制、および第1次大戦後にソ連の援助で独立した東欧の国々の監視のため。建国されたイスラエルはユダヤ人をヨーロッパ各地からどんどんパレスチナの地に入植させ、国土を広げる膨張政策を取ってきた。私は以前「イスラエルの国土はそもそも何%程度が合法的におカネを払ってアラブ人から買い上げものか」という疑問を持ち、調べてみたら凡そ20%以下でしかなく、あとは数百万人の貧しいアラブ人を強制的に追い出して占拠し、領土にしたものだった。
                                                       (写真下:エルサレム。イスラム教、キリスト教、ユダヤ教の聖地であるため、国連はイスラエルの領有を認めていないが、事実上、西エルサレムはイスラエルが占拠、東エルサレムにもユダヤ人の居住者を増やして領有を狙っており、そのためヨーロッパ各地からのユダヤ人の受け入れは現在もますます進められている。)Photo_2                             
現在イスラエル国内には約130万のパレスチナ人(アラブ系)が住んでおり、公私さまざまな差別どころかテロによる生命の危険にさらされている。(イスラエル全人口約650万)さらにイスラエルは 核兵器を持ち、国家予算の30%程度?をアメリカが拠出している。                                           

ところで映画「約束の旅路」(仏2005)について。現在イスラエル国内の最下層を形成するエチオピア系イスラエル人(人口約9万)のことを知りたかったから見たのだ。                 
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ものがたり:1980年代、大干ばつに見舞われたエチオピアでは多くの餓死者が出、さらにソ連の支援を受けた当時の軍事独裁政権による国民への弾圧(虐待)は多くの難民を国外に流出させた。かれらは何百キロの砂漠を横切る死の脱出行を経て隣国スーダンの難民キャンプにたどり着く。(写真上:スーダンの難民キャンプ)                          

主人公の少年(9才)もまた母とふたりで苦難の旅のあげく難民キャンプで暮らしている。母はある日同じキャンプで子どもを亡くしたばかりのエチオピア人ユダヤ教徒の女性に「この子をあなたの子として連れていって」と頼み、当時(1984)イスラエルとアメリカが行っていた難民救出作戦によってイスラエル逃れることができた。(写真下:大規模な難民の輸送「モーゼ作戦」)Photo_3               Photo_4
「絶対、キリスト教徒であることを隠してユダヤ教徒のふりをするのよ。あなたは私の息子、名前はソロモン、父はイサク、おじいさんの名前はヤコブ。それ以外のことは聞かれても黙っていること。」としつこく言い聞かせた女性(2番目の母?)も途中で亡くなり、ひとりぽっちのソロモン少年はイスラエル入国後、ヨハム(養父)、ヤエル(養母)とふたりの子のいる家庭の養子として引き取られる。Photo_5                                             

いつ、自分がユダヤ教徒でないことがばれるのかという恐れで誰にでも打ち解けられない日々、そして旅の途中で亡くなった母(見知らぬ女性)が「イスラエルは地上の楽園、蜜と乳の流れる約束の土地」といっていた国は、実はエチオピア系ユダヤ人を「ファラシャ(よそ者)」として差別する国だった。学校でクラスメイトの母たちが校門前に集まり「シュロモ(ソロモン)の皮膚の湿疹はエイズのため。彼を学校に来させないで。」と口々に叫ぶ。養母ヤエルは、彼らの前でシュロモを抱きしめ、ペロペロと頬の湿疹を舐めキスをし「エイズじゃない。ストレスで皮膚病になっているだけ。この子は世界一美しい子よ」と言い返し学校に通い続けさせる。夫婦は実のこと同じようにシュロモを愛し育てる。Photo_6                                              
実は養父母は「無神論者左派」と呼ばれる人々でそれを世間に隠すこともない。(イスラエルにはこういう人々もいることを知った。)、シュロモが実はユダヤ教徒でないことも本当は両親に隠す必要はなかったのかも知れないがシュロモはあくまでエチオピア系ユダヤ人であるふりをし続ける。シュロモが最も信頼するのはエチオピア人のラビ(ユダヤ僧侶)ケス・アムーラ師。TVで彼を知ったシュロモは彼の独居を訪ね、実母への手紙を代筆してもらうのだ。(シュロモは母国のアムハラ語を喋れるが書けない。)以後アムーラー師はシュロモの心の支えとなる。しかし彼にも自分の素性を明かそうとはしない。Photo_7
キブツに入ったシュロモはここでもひとりぽっち。しかし訪ねて来た養父の父であるおじいちゃんはキブツの創設者のひとりだが「民族や宗教の違いを超えて皆で土地を分かち合い愛を分かち合うことが大切。」だとシュロモにいう。                          

高校のクラスメイト(だったかも?)のサラと恋に落ちたシュロモは、サラの父に徹底的に嫌われる。彼はアシュケナジムのポーランド系ユダヤ人でファラシャを侮蔑している。Photo_8
イスラエルの上層部を構成するのはアシュケナジムと呼ばれるドイツ、東欧から来た人々とセファルディムと呼ばれる南欧系の人々。アシュケナジムは」ソ連崩壊時に激増した。指揮者・ピアニストのウラディミル・アシュケナージもここから来る名前なのだろうか?                                               

シュロモは支離滅裂な存在である自分のアイデンティティは?、とうとう思いつめて行きずりの交番で「私はユダヤ人ではない。キリスト教徒です。」と名乗り出る。中年の警官はシュロモにいう。「最後まで耐えろ。そうしたら俺がお前に仕事を見つけてやる。」彼もまたかってユダヤ人として差別を受けてきたつらい経験から「ファラシャ」である少年に暖かかった。

成人したシュロモは、祖国に帰るために医師になることを決意し、パリに留学する。

1994年、TVでアフリカの大干ばつ、キャンプでの赤痢の蔓延を知った医師シュロモは「国境なき医師団」に参加しスーダンの難民キャンプに赴く。反対したサラもシュロモの子を身ごもって初めて彼の「母親探しの旅」を理解するのだ・・そしてスーダンのキャンプに赴任することを決意する。そして難民キャンプに戻った彼は・・。 

イスラエルの内情を殆ど知らなかったので2時間を越える映画だったがあっという間に見た。次々と三人の母に守られて成長したシュロモ。(監督は会見で「4人の母(サラを加えて)」と述べている。                                         

演じた青年俳優シラク・M・サバハもまたエチオピアからの死の逃避行をしてきたファラジPhoto_10 ャだということです。                                         

エチオピア山中に古くからユダヤ教徒がいたことについては「ソロモンとシヴァーの末裔」「モーゼのエジプト脱出の際、一行の一部の人々が住み着いた」など諸説があるがいずれも学問的は定説はないということだ。イスラエルがアメリカの支援で「モーゼ作戦(1984-5)、ソロモン作戦(1991)によって数万人のエチオピア人難民を救出してイスラエルに輸送したことについては「両国の難民救済プロパガンダ」でもあったが(エチオピア系ユダヤ教徒だけを選別したことも理不尽)、当時イスラエル国内ではパレスチナ人が急増していたため危機感を持ったこと、とりわけ東エルサレムを占拠するためにユダヤ人口を増やすという政治的意図があった。                                       

映画「約束の旅路」は各地の映画祭で多くの賞を得、日本公開に際しても「文部省指定」映画にされた。私はこの映画のテーマは「諸民族の平和的共生」だと思った。しかしそれを突き詰めるとそもそもイスラエルという国の存在は否定されねばならないのだが。   

さらにイスラエル人の中にも養父母のように「左派無宗教の人々がおり、彼らはアラブ人との戦争を否定しながらも、将来はわが子をその戦争に送り込まねばならない。(徴兵令のため)それならと国を出たとしても好戦的右派の好き放題にさせてしまうから選挙権を放棄することはできない。」というジレンマに苦しんでいるのだ。(監督談)

Photo_9 ラディユ・ミヘイレアニュ監督はルーマニアで生まれたユダヤ系フランス人。「私の中には2つのアイデンテティがあり、どこにいても”よそ者”という辛い思いをしてきました。しかし自分ではない他人になることによって自分自身を解放し、他者に歩み寄ろうとすることができるのでしょう。」と述べている。                                                  

さらに彼は「ユダヤ民族とは人種として定義されないし、また宗教としてのみ定義されるものでもない。ユダヤ民族はある伝説と言語と歴史に対する独自の関係を幾世紀にもわたって維持してきた人々の集団として定義される。」としている。

陰鬱な雨の日、心も落ち込むけれど・・「イギリスに憧れて」

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梅雨に入ってから陰鬱な雨の日が続いて心が落ち込む。小さな庭を見ると花の終わったバラの樹、蕾が膨らんできたユリなどが雨に濡れてそれでも活き活きと緑の葉っぱを光らせている。放射性物質の塵を含む雨なのだろうけれど木々や花は何も知らずに雨を享受している。・・・ (写真上はイギリス・湖水地方の草原)                                                 

ブログも最初は毎日書いた(我ながらすごい!)のだが(マイナスな心に陥る暇を持たないため追われるように書いたのだ)、つまらない文章でも書くということはとても大変、楽しいことばかり書こうと思っていてもそうは問屋が卸さず、書いていくうちに落ち込んでくることもある。(特に映画)・・ということで最近はせめて週2回は必ず更新という目標で書いている。(のだけれど)                   

去年の8月に初めてブログを書き初めた頃、「イギリス映画大好き」でケン・ローチ監督の「明日へのチケット」、マーク・ハーマンの「シーズン・チケット」を取り上げた。彼らの映画は徹底してイギリス社会の底辺を構成する人々に焦点をあてており(とくに1980年代、サッチャー政権下での大失業時代の)日本でも高い評価を受けたモノが多い。                

ところがそれらと対極にあるような中上流階級の人々を描く映画(特に時代モノ)も多くあり、こちらも私は好きで可能な限り見ている。(とくに最近は18世紀末の作家ジェーン・オースティンのブームで「プライドと偏見」「いつか晴れた日に」「エマ」などが続々と映画化されている。私は原作は殆ど全部読み、映画化されたものはすべて見た(威張ることでもないか)。                                        
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原作はともかくこれら映画の魅力はイギリスの田舎、現存する貴族やジェントリーの別荘(マナー・ハウス、カントリー・ハウス)、素晴らしい自然の風景がふんだんに出てくることにある。
「日の名残り」の監督ジェームズ・アイヴォリーの作品もそうだ。この人もこれぞイギリス映Photo_3 画、という作品を作る人でともかく彼の映画に出てくるイギリスの田舎の風景、森や湖、ロンドン郊外などの風景は素晴らしい。(「眺めのいい部屋」「モーリス」「ハワーズエンド」「日の名残り」しか見ていないが。)映画の背景は全て19世紀~20世紀初め、登場人物は貴族(といっても下のほうの伯、子、男爵クラス)と富裕な商人?の家族と彼らにかかわる庶民。「眺めのいい部屋」(1986)は中でも高く評価されて何か国際映画祭の受賞もした記憶がある。(上のポスターはアイヴォリーの作品のひとつ「ハワーズ・エンド」。中でもいちばん私の好きな作品。写真右:ロンドン郊外のハワーズ・エンド。建物は古色蒼然だが建物を取り巻く庭や自然の美しさといったら・・。 Photo_10                     

物語は「ハワーズ・エンド」と呼ばれるロンドン郊外のマナーハウス(元貴族やジェントリーの邸宅)を巡る2つの家族の悲喜こもごもの物語で、貧しい銀行員の青年や元売春婦の妻なども絡み、イギリスの階級社会、富裕な人々や元貴族たちの退廃なども描かれている。。(写真左:夜、森の中をさすらうシーン。青い花のあまりの美しさにCG?と思ったが、実はブルーベルの花の群落はイギリスのあちこちの公園に見られるそうだ。(左下はウェークハーストガーデンのブルーベルの林)   
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当時富裕な人々はロンドンと田舎とに住まいを持ち、季節や仕事の都合で住み分け、どちらの生活も楽しんでいた。そして必ず何ヶ月もの長い旅(国内各地やイタリアのフィレンツェ、ベニスなど)に出るのだ。親戚や知り合いの家に長期滞在したり、定宿を持っている。イギリスでよく出てくるのはスコットランドの「湖水地方」、ウェールズなど。              

貴族たちが旅する「湖水地方」はスコットランドにあるイギリス随一の自然の森や原野、湖水など。 (写真下:湖水地方)Photo_14  Photo_15 Photo_16 イギリスはかって数回に及ぶ資本家や地主の囲い込み(エンクロージャー)によって自然や風景は壊され、さらに産業革命による人口の都市移動によって荒廃したのだが、その後自然環境や景観を取り戻し保護する市民団体(ナショナル・トラスト)の運動によって見事に復活した。湖水地方を始め国内に存在する保護地域は現在300万人の会員と国との協力で管理されている。(写真下:そのひとつ、コッツウォルズのピーター・ラビットの村。ハリー・ポッターはこの村をイメージして書いたという。)Photo_17

「カズオ・イシグロを探して」(NHK・ETV特集)・・英映画「日の名残り」

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実は放送当日の朝、新聞のTV番組で見て期待していたのだが、夜、気がついたらとっくに終わってしまっていたということでポカで見逃してしまった番組なのだ。カズオ・イシグロの小説「わたしを離さないで」が映画化され、10年ぶりに去年来日したときのインタビューをメインとする番組だったので期待していたのにこのポカぶり。(残念!)                

私がカズオ・イシグロを知ったのはイギリス映画「日の名残り」を観たとき。原作小説があり作者がカズオ・イシグロだったことから・・。その時は「えー?!、こんな純イギリス的な作品を日本人(日系2世か3世?)が書いたの?といぶかったものだが、最近になってカズオ・イシグロ氏についてネットでいろいろ情報を得たのだ。カズオ・イシグロ(石黒一雄)1953年長崎生まれ。父親(海洋学者)の仕事の関係で5才のとき渡英し、そのままイギリスに留まり、1982年にイギリス国籍を取った日系イギリス人。日本語が全く話せないそうだ。      

彼は「The Remains of the Day」(日の名残り)が1989年にブッカー賞(イギリスというよりは欧米で最高の文学賞)を得るや一躍有名になり、現在では欧米で最もよく読まれている作家である。・・ということで「日の名残り」(中公文庫)は近所の書店で入手し、もう大分前に読んだ。映画「日の名残り」(1993)は原作に忠実に1920~30年代のイギリスの貴族社会とそこで働く庶民(執事や女中たち)の日常、そして2次大戦に向かう時代の空気も精緻に描き出し、主人公を演じたアンソニー・ホプキンスとエマ・トンプソンは米アカデミー賞(オスカー)主演最優秀賞を得た。                                             
Photo_6 オックスフォードにあるダーリントン卿の豪華な邸宅(ダーリントン・ホール)の筆頭執事スティーブンスは父親から2代にわたってこの邸宅に勤めてきた。完ぺき主義者の彼は多くの執事、召使たちを指揮して邸宅の日々を仕切り、ときにはVIPの集まる宴席でもひとつの落ちPhoto_4 度もないように勤めてきた。スティーブンスは「偉大な執事に要求されるものは巧みな話術や発音などではなく”品格”である。そして”品格”というのは自らの職業のあり方を貫き、それに耐える能力である。」と思っている。名優アンソニー・ホプキンス(シェイクスピア俳優)は原作のストイックで品格のある執事を完璧に演じている。                       

幼い頃から憧れて尊敬してきた父親が老いて働けなくなると掃除係に格落ちさせ、最後に邸宅の屋根裏の小さな部屋で父の最期を看取る。彼に密かに想いを寄せる女中頭のミス・ケントン(エマ・トンプソン)をも受け入れることなくひたすらダーリントン卿に仕える。       Photo_7
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ストーリーは大戦終了後の1950年代、スティーブンスが短い休暇をもらいオックスフォード地方やイギリス各地を旅しながら、執事として卿に仕えていた日々を回顧するという形ですすめられる。                     

大戦後、邸宅は競売に出されてすでにアメリカ人の富豪ファラディのものとなっている。ファラディの要請でスティーブンスは執事として邸宅に残ることになっていたが、この旅の一番の目的はミス・ケントンとの再会であった。そして陰鬱な雨の中の片田舎の町で出会うふたり。しかしミス・ケントンはすでに結婚しており、ダーリントンホールに戻ることを断わる。                                                                        Photo_8 Photo_14
ラストシーン・・再び執事としてこの邸宅で働く決意を強めたスティーブンスが新しい主人のファラディと荒れはてた大広間で迷い込んできた白いハトを追いかける。ハトはバタバタと天井を逃げ回る・・。このシーン、とても象徴的。イギリスの凋落とアメリカの台頭?アメリカの唱える”平和”を表わすハト?、 小説の方はラスト、旅の終わりに自分の人生を振り返って海を見ながら涙を流すスティーブンス。隣に座った男が言う、「夕方が一日でいちばんいい時間なんだ。」               

ナチが台頭しヨーロッパに戦火が迫る1930年代、イギリス国内(とくに貴族)には親独派が多かったということを知った。(もともと現ウィンザー王室もドイツから来ているし)映画の中でダーリントンホールに在英ドイツ大使リッペンドロップを招いてたびたび集まる親独派の人々とPhoto_9 対独開戦を回避する為の会議(晩餐会)。                             
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1938年・ミュンヘン会議で「対独宥和政策」を主張したイギリスのチェンバレンの背景には「ドイツにソ連を潰させる」以外にこういう国内の事情もあったのだろう。シンプソン夫人と結婚して王位を捨てたエドワード8世もドイツびいきで有名。そのためにチャーチルは彼の退位に執着したということらしいし、エドワードは退位後もドイツの協力で何度か復位を狙っていたということを何かの本で読んだことがある。(ナチス・ドイツの方はエドワードを傀儡にしてイギリス制覇をもくろんだ。)映画中、スティーブンスが立ち寄った地元のバーで住民たちがダーリントンホールや親ナチの卿を決して良くは思っていなかったことを知るシーンがある。    しかし(原作では)スティーブンスは「今日、人々がまるで自分は一瞬たりともリッペンドロップ卿(ドイツ大使)に丸め込まれたことはなく、リッペンドロップさまを名誉或る紳士として信じて協力したのは、ダーリントンさまだけであるかのように語るのを聞きますと、やはり違和感を覚えます。リッペンドロップ様は「引っ張りだこ」でさえあったお方でした。」 と当時のイギリス貴族の大半が親独であったことを述懐している。           

 完璧な執事として全ての他の人生の選択をすてて生きたひとりの男。そして彼が仕えた大英帝国。それらは今は老いて、たそがれの中にある。カズオ・イシグロはイギリスの「古き良き時代」を懐かしむイギリス人なのだ。Photo_11                                                          

「三陸海岸大津波(吉村昭著)」1970・・改めて思う、東北大震災は「想定内」であったと・・

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今回の3:11東北大震災で、吉村昭著「三陸海岸大津波」が再び世間の脚光を浴び、読者が増えているということで、私も早速、市の図書館に予約していたのが入手できたので読んだのだ。吉村昭のファンを自称する私は恥ずかしいが彼のこの著の存在を知らなかった。当初は「海の壁」という題をつけて世に出したのが「あまり気取りすぎているのではないかという反省」で文庫版にするときに題名を変えたと”あとがき”で記されている。記録されている内容は   

*明治29年6月の津波(1985)                                    

*昭和8年の津波(1938)                                        

*チリ大地震による津波(1960)                                   
の3つの大震災であり、いずれも作者の現地での丹念な聞き取りによってわかった事実のみが淡々と記されている。著者の吉村昭は「戦艦武蔵」でドキュメンタリーというよりも”記録小説”というジャンルを開いた作家で、丹念な資料収集、読み込み、現地取材、関係者への聞き取りという方法により、作家の主観を可能な限り排し、客観的かつ冷静な文章が特色の作家で、読者はその静謐な文体と内容に、逆に作者の強い思い入れ(主観?)を読み取り感動するのだ。(ちなみに「戦艦武蔵」はこの巨艦が作られる過程からレイテ沖で撃沈するまでを記録したもの)                                               

*明治29年の大津波・・・これを実際に経験した人(当時は子ども)が殆ど生きていないという状況の中で、高齢のわずかな数の生存者からの聞き取りによって生存者の記憶による証言が記されてている。(震災からこの本が書かれた年まで既に80年近い歳月が経っている)
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主たる被災地となった青森、岩手、宮城三県は豊富な水産資源に恵まれた漁場ではあったものの、内陸部と通じる道やインフラは当時殆どなく、村々は互いに孤立し(辛うじて船で行き来)貧しい暮らしをしていた。津波の予兆は例をみない湿気の多い梅雨期の不漁とそれに続く急激な豊漁があまりにも奇異であったこと(海岸近くに押し寄せてきた大マグロのすざまじい群れ、鰯やうなぎの大漁。しかしその40年前の「安政の大地震」での大津波で多数の死者の出た三陸海岸はこのときも同じように直前に異様なまでの大漁があったと当時村の古老が記憶していたという。                                        

6月15日夜、昼間から続く数回の弱震をあまり気にもとめず家々では端午の節句の祝い(旧暦)のPhoto_4 席が設けられていた。しかし夜8時を過ぎたころから海は動き始めていたのである。長大な(場所によっては1キロ以上)引き潮によって海岸線は遥か彼方に遠のき『、闇の沖合いで異常にふくれ上がると、満を持したように壮大な水の壁となって海岸方向に動き出した。・・「ドーン」「ドーン」という音響を耳にし・・或る者は、それを雷鳴かと・・また或る者は、大砲の砲弾を発射する音のように聞いた。』『すさまじい轟音が「三陸海岸一帯を圧し、黒々とした波の壁は、さらにせり上がって屹立した峰と化した。・・波はすさまじい轟きとともに一斉にくずれて部落に襲いかかった。・・人々の悲鳴も、津波の轟音にかき消され、やがて海水は急速に沖にむかって干きはじめた。家屋も人の体も、その水に乗って激しい動きでさらわれていった。・・』『津波は、約6分間の間隙をおいて襲来、第一、第二、三波を頂点として波高は徐々に低くなったが、津波の回数は翌16日正午ごろまで合計十数回にも及んだ。』               
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聞き取りが行われた古老(中村氏・高台の自宅が津波に呑み込まれた)の家に導かれた吉村昭は同行した村長からこの家が海抜50mの高台に位置することを聞き驚愕する。この大津波でもっとも被害の大きかった岩手県の気仙郡ではほぼ村人が全滅するという村々が多く出た。(メディアで聞きなれた「田老地区(村)」も全滅)                      

話は変わるが、現在被災地からのレポートを担当する報道関係者に「心の病気」が急増しているという。その理由はTVで放映されないすさまじい遺体の山々(多くはむごたらしく損傷されている)、手が回らず放置された遺体が発する悪臭などで精神的に打ちのめされてしまう者が多いという。この明治29年の津波においても住民の5割~10割の死者を出した村々では遺体の収集作業すらおぼつかなく長期にわたって放置された多数の遺体の山は地域全体にすさまじい腐敗臭を放っていたという。                                       

*昭和8年(1933)の大津波・・1929年に始まる世界恐慌の波は東京大震災(1924)と引き続く金融恐慌の打撃から未だ立ち直れていない日本経済に決定的ダメージを与えた。さらに1930年~34年の東北地方の冷害による大凶作はかの宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の詩の背景となり(賢治は1934没)、「村で寝るふとんのある家が皆無」「村役場が娘の身売りを斡旋」など目を覆うばかりの惨状をもたらした。(写真下:村ごと喪失した田老町)
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このような時期(1933)に到来した大津波は明治29年と同じく、その被害は岩手県が最大で、青森、宮城がこれに続き、人口が全滅に近い被害を受けた村々も多くあった。前兆としては「井戸水の混濁、渇水」、「異常な豊漁」などが見られ、海の彼方の砲声音のような響きが各地で聞かれた。地震は3月3日の夜半、午前2時32分。凍りつくような寒さのためいったん戸外に出た人々が再びふとんにもぐりこんだ十数分から30分後、3回から6回の大津波が襲来した。悲惨を極めたのは田老、乙部地区で全戸がほぼ波に呑まれ、1900人の村人のうち生存者は36名、他にマグロ漁のため沖合いに出ていた60名の猟師が助かった。     

*チリ地震津波(1960)・・この津波は「地震の後に津波が来る」という住民の常識を覆しPhoto_8 、5月24日、最初は異常なまでの引き潮が始まり、午前4時半頃から津波が押し寄せてきた。「海水が膨れ上がってのっこ、のっことやって来た。」「海面が平面的にふくれ上がり、街路や家々が静かに水の中に浸っていった。」と住民の証言が記されている。            

津波は陸に這い上がり人家を呑み込み奥のほうにすすんでいった。大船渡市赤沢地区では電報電話局の2階まで水没し、他の人家は全て流失してしまった。幸いなことに建設されていた防潮堤の存在、夜明けという時間帯であったことなどから失われた人命は岩手県だけで61名と少なかった。この津波に関しては多くの記録、証言が残され、小学生たちの作文集としても保存されている。                                          

三陸海岸を愛し、幾度となくこの地を訪れている吉村昭は結びでこう記している。「津波は、自然現象である。ということは、今後も果てしなく反復されることを意味している。海底地震の頻発する場所を沖にひかえ、しかも南米大陸の地震津波の余波を受ける位置にある三陸海岸は、リアス式海岸という津波を受けるのに最も適した地形をしていて、本質的に津波の最大災害地としての条件を十分すぎるほど備えているといっていい。津波は、今後も三陸海岸を遅い、その都度被害をあたえるにちがいない。」                           


Photo_9 吉村昭氏は「都会の海は単に汚れた水の溜まり場に過ぎない。私が三陸海岸を愛するのはこの地の海が人々とともに生きてきた海であり、今も人々の生活に溶け込み、共に日々の暮らしを営んでいることに感動するのだ。」と記している。                      

時には巨大な怪物と化して人間の生命すら奪ってしまう海。しかし人々は決して海から離れようとせず ”万里の長城”のような防潮堤を築いてでもこの地で生きてきたのだ。先日TVを見ていたら南三陸町(だったか)の漁業にたずさわる人々は、今後もあくまで被災跡地に新たな町を作ろうとしていることを知って驚きというか感動すら覚えた。彼らは「今までの防波堤がダメならもっともっと巨大で頑強な「万里の長城」を作ってでもこの地を離れたくないのだ。(写真右下:「田老万里の長城」と呼ばれた防波堤:大津波はこれを越えて町を呑み込んだ)Photo_12

最後にこのような世界有数の大震災地帯であるということを知りながら福島、女川、六ヶ所村、そして茨城・東海村の「核燃料製造施設」などを作ってきた政治と企業の狂気に改めてショックを受けた。さらに8世紀初(平安初期)の「貞観の大震災」(日本三代実録)が今回の大震災にきわめて類似点が多いこと、地質学者たちの地道な地層の現地調査、研究・解析によってその実態が(津波の高さ、浸水地域など)」かなり明らかになっているというその報告書すら真摯に読もうとせず恐らくは”デスクの肥やし”にしていたであろう東電の「不真面目・根拠のない楽観主義」はもはや何をかいわんやである。ましてや「今回の震災は想定外の規模であった」という理由で「賠償の免責」を言いはじめている東電元社長・ 清水某のあつかましさには呆れるばかりである。二重の被害を受け(放射能汚Onagawa 染)かけがえのない故郷を失った人々に対する責任は未来永劫に償うことはできない。(写真は、辛うじて持ちこたえた女川原発。明治29年の大津波の中心被災地に立地。)                                                  

付記: 作家・吉村昭の作品は歴史からテーマを取ったものが多く私が初めて氏の小説に 出会ったのは「長英逃亡」(毎日・夕刊小説)でその後「ふぉん・しいほるとの娘」など幕府の迫害に耐えて洋学(蘭学)を修めた人々の生涯を描くものをいくつか読んだ。さらに短編「帰艦セズ」・・海軍の少年兵が「天皇の下賜品」として命よりも大切と教えられたアルミの弁当箱を演習時の山林で紛失し、それを捜し求めて最後に餓死しているのが見つかった・・を読んで(これも実話をもとに書かれている)強い衝撃を受けたことを憶えている。 

吉村の小説には作家の主観や心情などは極力排されているが、氏の「エッセイ集」には私生活のもろもろ(津村節子氏 は妻で小説家)、各地への取材旅行のあれこれなどが記されており、私はこちらも好きで図書館にあるものは全て読んでしまった。吉村は少年時代に両親が病死、大学で文学に巡り合うが中退して兄とともに弟妹を養いつつ(時には行商も)小説家になった。「冷たい夏、暑い夏」は中年になった弟を癌で亡くした(入院生活から葬式までの)経験を記して、吉村の誠実な人柄がしのばれる作品である。なお吉村昭自身も2007年にすい臓癌で亡くなった。最後は看護する娘さんに命綱の点滴を外すように指示されて亡くなられたという。     

軍事政権から25年も経って未だに心に傷を抱えて生きる人々・・・「瞳の奥の秘密」

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アルゼンチン映画「瞳の奥の秘密」(2008・ファン・ホセ・カンパネラ監督)は、公開当時34週ロングラン大ヒットし、アルゼンチン・アカデミー賞を総なめにした後、翌年には米アカデミー賞・外国語映画部門最優秀賞を受賞した作品である。この受賞は同じく軍事政権下の国民への残虐を描いた「オフィシャル・ストーリー」(1986)が同賞を得てから20年目にあたり、未だにあの時代の傷が現実の生活に影を落としたまま生きている人々が数多く存在することを教えてくれる映画である。(アルゼンチン国内で空前のヒットをした理由のひとつもそれが原因かもと推察される。)映画としての完成度が高く、全体のストーリーがサスペンス仕立てになっているためラストに至るまでのストーリーを詳細に記すことはできない。さらに当時のアルゼンチンの司法制度がわからないので刑事や検事の権限、互いの関係などについても明確には述べられない。

ものがたり:1974年、ブェノスアイレスの刑事裁判所に勤める刑事ベンハミンは同僚のパブロ、上司で判事補のイレーネとともに或る殺人事件を担当することになる。それは幸せな新婚生活を送る若く美しい妻が、ある日アパートで強姦、惨殺されるという衝撃的な事件だった。事件は当時このアパートで配管工事をしていた作業員の自供によって落着する。      
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ベンハミンらは犯人が厳しい拷問の結果、自白を強要されたことを推測するものの裁判所の上司は「事件は終わったのだ」とベンハミンらの捜査の続行を禁止する。(自白した犯人は拷問のため瀕死の状態だった)                                       

1年過ぎたある日、ベンハミンは駅のベンチで偶然に被害者の夫で銀行員のリカルドに出会Photo_6 い、リカルドが事件以来1年間、毎日駅頭で真犯人探しをしていることを知り驚愕する。ベンハミンは判事に捜査の再開を訴え、許可が下りないままに同僚パブロとともに無断で捜査を始める。「お前の行動は判事補のイレーネを巻き込むことになるんだぞ。」と脅かされても捜査を止めない。2人は事件を追う中でアパートに残された幾通かの手紙、被害者の故郷での昔の写真に(大勢で撮った)何度も出てくる従兄(だったと思う)に目星をつけ、張り込みや聞き込みでとうとう田舎からブエノスアイレスに出てきていた従兄を拘束することに成功する。彼こそが真犯人だった。 (写真左:リカルド)                                        

そして犯人イシドロはついに裁判で「終身刑」を宣告され刑務所に送られる。                

ここで感想。「瞳の奥の秘密」はずばり的確な題名だ。                               

*ベンハミンがイシドロが従妹リリアナ(殺された)に当てた数通の手紙と昔の写真を現場のアパートから見つけて犯人を確信するシーン。写真に写ったイシドロのリリアナに向けられた異様なまなざし(執着をこめた)。                                   

* 尋問されてもあくまでシラをきる イシドロに突然イレーネが「貴方なんかには女を強姦する熱情?も体力もないんでしょ。貧弱な一物ぶらさげてるの、見なくてもわかるわよ。」 ・・挑発に乗って逆上し、豹変するイシドロ。下穿きを脱いでイレーネに襲い掛かろうとする。イレーネがイシドロの瞳の奥の狂気を見て挑発する見事なシーンだ。                     

*駅で1年ぶりに被害者の夫リカルドに出会うベンハミン。リカルドの瞳の奥に殺された妻への愛を見て心を揺さぶられるシーン。

ところが事件は意外な展開をする。ある日何気なくTVニュースを見ていたベンハミンは独裁Photo_4  者イサベラ・ペロン大統領(夫亡き後政権を引き継いでいた)の護衛官の中にイシドロの姿を発見して驚愕するのだ。「終身刑」で刑務所にいるはずのイシドロは実は反政府者の情報を密告して許され、その(冷酷卑劣な)性格を見込まれて自由の身になったばかりか、法外の出世までしていたのだ。そしてたまたま出向いた官庁でイレーネとベンハミンに出会ったイシドロは銃をちらつかせて彼らを威嚇する。彼らの関係は逆転したのだ。               

さらにベンハミンへの恨みを持つイシドロはベンハミンのアパートに押し込んで間違って居合わせたパブロを撃ち殺してしまう。             
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挫折感、友の死への呵責、身に迫る危険を感じたベンハミンはイレーネと別れて田舎に去る。(写真左:駅頭で別れる2人)        

そして25年の年月が過ぎる。イレーネの愛を受け入れなかった中途半端な自分(彼女はハーバード出のエリートなのに自分は高卒の叩き上げというコンプレックスが邪魔した)、パブロを誤って殺させてしまった呵責などに苛まれる虚しい日々。ついにベンハミンは過去の自分と向き合い、人生の再出発の糸口を求めるべくブエノスアイレスに向かう。            

イレーネは既に結婚して2人の子持ち、相変わらず裁判所に勤めている。イシドロはパブロを殺した日からなぜか消息を絶ったという。 ベンハミンは事件以後の25年を自分と同じように辛い日々をすごしたであろうリカルドに会うために、地方の銀行に転勤して田舎住まいをしているという彼の元に向かうのだ。Photo_7 Photo_8
リカルドは老いてなおひとり身、諦念の中に生きているかに見えた。「過去にこだわる者は未来をも失ってしまう。過去を忘れてしまえ。」と諭すリカルド。諦めてブエノスアイレスに向かうベンハミンだったが・・・再びリカルドのもとに引き返し、そして思いも寄らないラストが待っている。                                                   

*ベンハミンはなぜ引き返したのか? それは老いたリカルドの瞳の奥に宿っている彼の真の心を見たからではないだろうか?                                          

男女の愛と軍事政権下での殺人事件を織り交ぜた、非常に上手くできた完成度の高い映画だった。ラストまで「ハラハラ、ドキドキ」させるだけでも「この映画は秀作(朝日新聞コラム:沢木耕太郎氏)だといえよう。軍事政権下(厳密には1976年から始まった)の非条理、何でもアリの不気味な社会も怖い。・・                                    

最後にこの映画の受賞の20年前に同じく米・アカデミー賞を受賞した「オフィシャル・ストーリー」(1986)は私のブログでは2010年10月7日に取り上げているが、こちらは軍事政権崩壊後まもなく作られた映画であるためか、軍事政権の行った政治犯罪を真っ向から取り上げた、いわば「直球的作品」。どちらかといえば私は「オフィシャル・ストーリー」の方が好きです。                                                                                                                 

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